ウンベルト1世
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ウンベルト1世(Umberto I, Humbert I, Umberto Ranieri Carlo Emanuele Giovanni Maria Ferdinando Eugenio of Savoy, 1844年3月14日 - 1900年7月29日)はイタリア王国2番目の国王(在位 1878年1月9日 - 1900年7月29日)。彼は帝国主義を押し進め、1889年にエチオピア帝国に侵攻したが敗れた。1900年、アナーキストのガエタノ・ブレーシにより暗殺された。彼は暗殺された唯一のイタリア王国国王であった。
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[編集] 生い立ち
ウンベルト1世はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の息子としてサルデーニャ王国の首都トリノで1844年3月14日に生まれる。
1858年3月、彼は大尉としてサルデーニャ王国軍に入隊する。1859年にはソルフェリーノの戦いに参加し、1866年にはクストーザの戦いで師団を指揮した。
1868年4月21日にウンベルトはいとこのマルゲリータ・テレーザ・ジョヴァンナ(サヴォイア王女)と結婚した。息子はナポリ王子、ヴィットーリオ・エマヌエーレ、後のイタリア国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世であった。
[編集] 暗殺未遂
1878年11月17日、ウンベルト1世は首相のベネデット・カイローリを同伴してナポリでパレードを行ったが、その最中に無政府主義者のジョヴァンニ・パサナンテによって攻撃を受けた。ウンベルト1世は自らのサーベルでその攻撃を防いだが、カイローリは国王を守ろうとした際に腿を負傷した。暗殺者は捕らえられ、裁判の後死刑を宣告されたが、国王は彼を終身刑に減刑した。この暗殺事件は王妃マルゲリータの健康を損ねる一因となった。
アフリカの植民地戦争間に、パン価格の高騰に対する大規模なデモンストレーションがイタリア各地で生じた。1898年5月7日にミラノのデモで、フィオレンツォ・バヴァ・ベッカリス将軍が民衆への砲撃を命じ、その結果約100人が死亡し(死亡者数は350名だったとする説もある)、約1000人が負傷した。ウンベルト1世は秩序を回復させたバヴァ・ベッカリスを祝うために電報を送り、後に勲章を与えたため、世論の多くは大変に憤慨した。
[編集] 暗殺
ウンベルト1世の人気はますます低下し、再び暗殺が試みられた。1897年4月22日に失業中の鍛冶屋、ピエトロ・アカーリトがローマの近くで彼を刺殺しようとした。
結局彼は1900年7月29日の夜、モンツァでイタリア系アメリカ人の無政府主義者ガエタノ・ブレーシによって射殺された。ブレーシはリボルバー銃で四発発射し、そのうちの三発が命中した。ブレーシは捕らえられ、バヴァ・ベッカリスによって殺された人々に代わって復讐したと語った。
彼は1900年8月9日にローマのパンテオンでヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の側に埋葬された。彼は、息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が国外追放の後死去したたため、同所に埋葬された最後のサヴォイア家の国王であった。
[編集] 外部リンク
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