エドワード黒太子
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エドワード黒太子(Edward, the Black Prince, 1330年6月15日 - 1376年6月8日)はイングランド王エドワード3世の世嗣。
1337年から始まった英仏百年戦争に若くから出陣して活躍した。1346年、フランス王・フィリップ6世が率いるフランス軍をクレシーの戦いで打ち破った。以後もカレー攻略戦やウィンチェルシーの海戦、レ・ゼスパニョール・シュール・メールの海戦、そしてガスコーニュの戦いでいずれも勝利を収め、1355年までには一部を除いたフランス南部のほとんどを支配するまでに至った。1356年のポワティエの戦いでも勝利し、時のフランス王・ジャン2世を捕虜とするまでに至っている。
これらの戦功から、1362年にはフランス南部のガスコーニュ及びアキテーヌの公爵に任じられた。1367年、カスティリャ王国でエンリケ2世(恩寵王)と対立するペドロ1世(残酷王)を支援して遠征し、スペイン軍に大勝したが(ナーヘラの戦い)、この頃から黒太子は病気がちになってゆく。一説では、ペストに侵されていたという説もある。
黒太子は軍事には常に勝利を収めていたが、連年のように戦争を続けたため、そのための軍費は莫大なものとなって財政は火の車となっていた。このため、財政再建のために支配下に置いていたフランス領に対して重税を強いてしまい、フランス国民の怒りが爆発して、1369年に再び百年戦争が再開されてしまった(黒太子の活躍で、しばらく英仏は休戦状態にあったのである)。しかし病に臥せっていた黒太子は戦場に出て指揮を執ることができず、イギリス軍は各地でフランス軍に連戦連敗。何とか黒太子が無理を押して出陣したリモージュの戦いではフランス軍に大勝したが、このときの捕虜を皆殺しにしてしまい、以後もイギリス軍は各地でフランス軍の猛反攻を受けることとなってしまった。
1371年、病に倒れて戦場に出ることもできなくなった黒太子は本国イギリスに帰還して、父親に代わって国政を牛耳っていた弟のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントから実権を取り戻して国政改革に着手したが、父に先立って1376年、47歳で病死した。父・エドワード3世は翌年に死去し、その後は黒太子の子・リチャード2世が継ぐこととなったのである。
ちなみに黒太子と呼ばれる所以は、彼が常に黒色の鎧を着ていたためであると良く言われているが、その起源は必ずしも明確ではない。実際の所、存命中そう呼ばれたことはなく、後世の創作であるとの説が有力である。
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