サユディス
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サユディス(「運動」の意)は1980年代後半から、1990年代初めにかけて、当時ソビエト連邦の支配下にあったリトアニアの独立運動を指導した政治組織。1988年6月3日設立。ヴィタウタス・ランズベルギス(独立時には最高会議議長、現在、EC議会議員)が指導した。当初その目標は、リトアニアの自治を確立することにあったが、後に独立運動になる。
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[編集] 歴史的背景
1980年代中ごろ、リトアニア共産党指導部はゴルバチョフ連邦共産党書記長のペレストロイカ(改革)グラスノスチ(情報公開)を受け入れるのに消極的だった。1987年にリトアニア共産党、ぺトラス・グリシュケヴィチウス第二書記が死去すると、また頭の固い共産主義者リンガウダス・ソンガリアが後任となっただけであった。
しかし、ゴルバチョフ書記長のレトリックに勢いづけられ、ポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」の台頭に注目、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とアメリカ政府当局を勇気付けられた共和国政府と、バルト三国の独立運動家たちは次第に、リガ(ラトビア)、タリン(エストニア)そしてビリニュスで公然とデモを行うようになった。
[編集] サユディス結成
1988年6月3日、リトアニア科学アカデミーので開かれた会合では、共産党員も非共産党員も入り混じった知識人たちが、サユディス草創グループを形成し、ゴルバチョフのペレストロイカ、グラスノスチ、民主化を支持する運動を組織した。このグループは35人からなり、ほとんどが芸術家であった。そのうち17人が共産党員でもあった。その目標は後年単に「サユデュス」として知られるようになった、「サユディス改革運動」を組織することだった。
1988年6月24日、サユディス主導で大規模な集会が開かれた。そこで、ソ連共産党第19回大会への代表団は、サユディスの目標について知らされる。代表団が7月に帰還したときには約1万人がヴィンギス公園に集まり、歓迎した。
1988年8月23日、2万5000人がバルト3国のソ連併合を認めたモロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)とその付属秘密議定書に抗議した。
6月19日には地下新聞「サユディス・ニュース」が初めて刊行された。9月にサユディスは合法的新聞「アトギミマス」(再生)を刊行。サユディス支持の合計約150種類もの新聞が刊行された。
1988年、サユディスはヴィリニュスで設立大会を開催。35人の立法委員を選出した。そのほとんどは最初のグループのメンバーだった。
この委員会の議長には共産党員ではなかった音楽学の教授、ヴィタウタス・ランズベルギスが、就任した。
[編集] サユディスの活動
この運動はゴルバチョフの政策を支持したが、同時にリトアニア語の公用語としての復権など民族的な運動も推進した。その要求のなかにはスターリニスト時代の真実の暴露、環境保護、イグナリナ原子力発電所の第三炉の建設停止、そして、1939年に調印された独ソの侵略協定の付属議定書の暴露が含まれていた。
これらの目標を推進するために、サユディスは大規模集会を利用した。 1988年6月24日の集会にはリトアニア共産党の産業問題担当書記のアルギルダス・ブラザウスカスが出席した。
1988年10月、ブラザウスカスはソンガリアに代わってリトアニア共産党第一書記に就任する。共産党の指導者たちはサユディスに押しつぶされてしまうのではないかと脅威を感じたが、民衆の抗議に倒されるのも怖かった。
サユディスの候補は新しく設けられたソビエト立法組織、国民代表議会の選挙で勝利した。候補を立てた40選挙区中36選挙区で勝った。
1989年2月、サユディスはリトアニアが強制的にソビエト連邦に併合されたとして、その究極の目標が独立の達成であると宣言した。
リトアニアの国家主権は1989年5月に宣言され、リトアニアのソ連併合は非合法的なものだったとした。
1989年8月23日、ドイツとソ連の間で結ばれたモロトフ・リベトロップ協定の50周年には、エストニアのタリンからヴィリニュスまで600キロにわたる人間の鎖をつくり、国際社会にバルト三国の独立意識の覚醒を印象付けた。このデモンストレーションと3カ国の協力した努力は「バルトの道」として知られるようになった。
12月リトアニア共産党はソビエト共産党から離脱、その独裁を中止することに合意。
1990年、2月の選挙でサユディスの代表たちははリトアニア・ソビエト社会主義共和国の最高機関、最高会議(国会)の圧倒的多数を占める、ヴィタウタス・ランズベルギスは最高会議議長に選出された。
1990年3月11日、サユディス主導のリトアニアは、15あったソビエト連邦構成共和国として初めて独立宣言をする。 1991年、1月13日、連邦政府はリトアニアに武力介入、14人死亡。(血の日曜日) 1991年8月、ソ連共産党保守派がゴルバチョフを幽閉する8月クーデターの失敗を機に、世界各国がリトアニアを承認。
ついに、1991年9月、ソ連もリトアニアの独立を承認した、
[編集] 独立の後で
今日、サユディスはリトアニアで活動しているが、その影響力はほとんどない。異なる政治的信条を持つ人々を一つにまとめ続けることが出来なくなり、経済危機に有効に対処できないなかで、サユディスの人気は凋落していった。1992年2月セイマス(新しい国会)の選挙ではかつてのリトアニア共産党、民主労働党が勝っている。