バルト三国
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バルト三国(バルトさんごく)とは、バルト海沿岸のエストニア、ラトビア、リトアニアの3つの国をいう。三国とも北大西洋条約機構(NATO)、欧州連合(EU)へそれぞれ加盟している。
古くから西ヨーロッパ(特に北欧諸国とドイツ)とのつながりが深い。経済開放後の北欧資本の進出は目覚しいものがある。特にエストニア人はフィンランド人とは同じ人種(ウラル語族)であり、強い同種意識を持っている。
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[編集] 民族
エストニア人は、フィン・ウゴル系民族でフィンランド人と同じウラル語族である。一方ラトヴィア人とリトアニア人は、バルト系民族(バルト語族)である。ただしリトアニアが独自の文化を築いて来たのに比べ、ラトヴィアは、リヴォニアを基礎としていたため、民族の覚醒は19世紀に起こる。これらの別個の文化を共通化し、また、自立化させたのは、中世以来、政治的支配を行ってきた、少数民族のバルト・ドイツ人であった。
[編集] 歴史
一口にバルト三国というが、近代までは、別々の歴史を歩んできている。
[編集] 近代まで
[編集] エストニア
- 詳細はエストニアの歴史を参照
近代まではドイツ語のエストラントと言う地名が主流であった。フィンランドと同じくフィン・ウゴル系民族である。ヴァイキングに侵攻を受けた後は、ロシア人や、デーン人の侵略を受ける。ドイツ騎士団に支配された事もあるが、13世紀にデンマークが領有する。16世紀にリヴォニア戦争が起こると、その支配はスウェーデンに帰する。この時代は、スウェーデン・バルト帝国と呼ばれた。18世紀に起きた大北方戦争の結果、ロシア帝国の支配下に入る。
[編集] ラトヴィア
- 詳細はラトビアの歴史を参照
古くは先住民族のフィン・ウゴル系民族のリーヴ人が居住していたため、リヴォニアと呼ばれた(ドイツ風にリヴラントとも言われる)。13世紀にドイツ騎士団の一組織リヴォニア帯剣騎士団によって征服される。この騎士団は、常軌を逸した侵略行為を行ったため、民族はほぼ浄化され、後発のバルト人に同化された。これ以降、リヴォニアは、ドイツ騎士団、リトアニア、ポーランド王国によって支配を受ける。16世紀、リヴォニア戦争の後にこの地は分断され、南部はクールラント公国となった。17世紀に北部リヴォニアは、スウェーデン領となり、バルト帝国の一州となった。この地も大北方戦争後に、18世紀中に南北共にロシア帝国に帰することとなった。
[編集] リトアニア
- 詳細はリトアニアの歴史を参照
中世にリトアニア大公国として栄える。この国は非キリスト教国家だったため、東方十字軍であるドイツ騎士団との抗争が繰り返された。しかしリトアニアはコサックの地であるウクライナ(ポドリア)の領有に成功する。1386年、リトアニアはドイツ騎士団の侵略に耐えかね、ポーランド王国と同盟を組む。これがいわゆるポーランド・リトアニア連合である。リトアニア人は1430年まで自立していたが、以降ポーランドとの同君連合となり、リトアニア人の地位は低下していった。そして1569年のルブリン合同によって、正式にリトアニア大公国は消滅した。以降のリトアニアは、ポーランドと運命を共にする。
[編集] 近代以降
三国ともロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命ののち三国とも独立を達成した。しかし第二次世界大戦中の独ソ不可侵条約における秘密議定書によってソビエト連邦に併合された。
1991年8月20日にそろって再独立。ソ連崩壊へ大きな影響を与えた。
2004年3月29日に三国そろって北大西洋条約機構(NATO)へ加盟。同年5月1日にはやはり三国そろって欧州連合(EU)へ加盟した。