ビリー・ワイルダー
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ビリー・ワイルダー(Billy Wilder, 1906年6月22日 - 2002年3月27日)は映画監督、脚本家、プロデューサーであり、50年以上映画に関わり、60本もの作品に携わった。
本名ザームエル・ヴィルダー Samuel Wilder。鉄道駅内の喫茶店を経営するマックス・ヴィルダー Max Wilder を父に、オイゲーニア・バルディンガー Eugenia Baldinger を母に、オーストリア・ハンガリーのガリチア地方スハ Sucha(現在ポーランド)で生まれた。
ウィーン大学卒業後、新聞記者を経て1920年代後半にドイツで脚本家として仕事を始めた。
しかし、1933年アドルフ・ヒットラー率いるナチスが台頭してきたため、ユダヤ人のワイルダーはフランスへ移住、その後アメリカ合衆国に渡った(彼の母・祖母はアウシュビッツで亡くなっている)。
メキシコ経由で米国入国の際、書類の不備のため、入国を一時差し止めになった。絶望的になっているとき、係員にどんな職業か尋ねられた。「映画監督」と答えると、係官は「いい作品を作れ」と言って入国を許してくれた。「ビリー」とここで名前を変えたのは、大好きだった西部劇の主人公バッファロー・ビル・コーディからつけた(こちらの方が米国的で仕事も得やすいと思ったからである)。
自作の脚本を映画会社に売り込むが2年間は鳴かず飛ばずの状態で、エルンスト・ルビッチ監督にチャールズ・ブラケットと共同執筆した脚本が採用されてその後ハリウッドで活躍。ワイルダー=ブラケットのコンビは共同脚本のみならず、監督ー製作の緊密な関係にあって、彼の監督人生の半分はそのコンビで映画を作った。ブラケットが離れた後、今度はI.A.L.ダイアモンドと優れた脚本を作り、自らは製作・監督を兼業した。シリアス・ドラマからコメディ、スリラーまで幅広い演出力をもった人物であった。
1945年『失われた週末』でアカデミー監督賞とアカデミー脚本賞、『サンセット大通り』(1950)ではアカデミー脚本賞、『アパートの鍵貸します』(1960年)ではアカデミー作品賞、アカデミー監督賞、アカデミー脚本賞を受賞した。1本の映画でひとりの人物が3つのオスカーを受賞したのは、この時が唯一である。アカデミー賞の常連であり、ノミネート回数は20回に及ぶ。
大のネクタイ嫌いで知られていた。温厚な人柄であり、美術コレクターでもあった。1981年に映画界を勇退。
2002年、カリフォルニア州・ロサンゼルスにて95歳で逝去。
[編集] 代表作
- 1938年「青髭八人目の妻」-Bluebeard's Eighth Wife(脚本)
- 1939年「ニノチカ」-Ninotchka(脚本)
- 1943年 「熱砂の秘密」-Five Graves to Cairo(脚本・監督)
- 1944年 「深夜の告白」-Double Indemnity (脚本・監督)
- 1945年「失われた週末」 -The Lost Weekend (脚本・監督)
- 1950年 「サンセット大通り」-Sunset Blvd. (脚本・監督)
- 1953年 「第十七捕虜収容所」 -Stalag 17(脚本・監督・製作)
- 1954年「麗しのサブリナ」-Sabrina(脚本・監督・製作)
- 1955年「七年目の浮気」-The Seven Year Itch(脚本・監督・製作)
- 1957年「情婦」-Witness for the Prosecution(脚本・監督・製作)
- 1957年 「昼下りの情事」 -Love in the Afternoon (脚本・監督・製作)
- 1957年 「翼よ! あれが巴里の灯だ」-The Spirit of St. Louis (脚本・監督)
- 1959年「お熱いのがお好き」-Some Like It Hot (脚本・監督・製作)
- 1960年「アパートの鍵貸します」-The Apartment(脚本・監督・製作)
- 1963年「あなただけ今晩は」-Irma la Douce (脚本・監督・製作)
- 1970年「シャーロック・ホームズの冒険」-The Private Life of Sherlock Holmes(脚本・監督・製作)