フランクリン・グラハム
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フランクリン・グラハム(Franklin Graham / William Franklin Graham III、1952年7月14日 - )は、現代アメリカの著名なキリスト教のテレビ伝道師である。
伝道師ビリー・グラハムと妻ルース・ベル・グラハムの5人の子のうち4番目の子としてノースカロライナ州アシュビル郊外のアパラチア山脈で生まれ育ち、現在はノースカロライナ州ブーンに居住している。
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[編集] 若年時代
10代にはニューヨーク州ロングアイランドのキリスト教系寄宿学校ストーニー・ブルック・スクールに入学したものの、やがて中退し、ノースカロライナ州で高校を卒業。ルトゥルノー・カレッジに入学したものの、クラスメイトの女性を門限になっても帰らせなかったことで退学処分を受ける。しかし高等教育を受ける努力を続け、モントリート・カレッジおよびアパラチア州立大学を卒業したことで、両親に喜ばれた。
[編集] クリスチャンとしての歩み
1974年、エルサレム旅行中にホテルの一室でクリスチャンとなる。22歳だった。この年、ジェーン・オースティン・カニンガムと結婚。
クリスチャンとなってまもなく、キリスト教団体「サマリア人の財布」(en:Samaritan's Purse)の創設者ボブ・ピアースに加わり、アジアへの6週間の伝道旅行に出発。この旅行中に、世界の救済に焦点を絞ることを決意する。ピアースの死後1979年に同団体の会長に就任する。
1989年以降、伝道イベントを主催。ビリー・グラハム伝道協会(en:Billy Graham Evangelistic Association、BGEA)との協力により、毎年少なくとも5回のグラハム・フェスティバルを世界中で開き、説教を聴いた人はのべ300万人以上にのぼる。フランクリン・グラハムは現在、BGEAの会長兼CEOに就いている。
1999年のコロンバイン高校追悼集会でスピーチ。2001年ジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の就任式で開会の祈祷を担当した。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件直後に「イスラム教は非常に邪悪な宗教」と発言したことで批判の的となった。さらにイラク戦争でバグダッドが陥落した9日後の2003年4月18日、聖金曜日の礼拝を行うためバグダッドに赴いたことでもさらに批判を浴びた。[1][2]
2006年11月3日から5日まで、沖縄の北谷陸上競技場で沖縄フランクリン・グラハム国際大会を主催した。(リバイバル新聞2006年11月19日号に掲載)
2007年11月29日から12月2日の間、香港を訪れ、香港フランクリングラハムフェスティバルを主催する。これは1997年以来初の大規模な伝道集会となる。
[編集] 語録
- 「ビリー・グラハムの子であるというだけでは天国への道は保障されない。」
- 「私は、道のスラムと世界のどぶのために召されている。」
- 「父がしていたような伝道的説教を私がすることになるとは少しも思っていなかった。」
- 「イスラムの神はキリスト教の神、ユダヤ・キリスト教の信仰の神と同じではない。イスラムの神はそれとは別物で、非常に邪悪な宗教だと思う。」 (CBC, 2006年10月22日)
- 「しかし、われわれの手にしている武器を使おうではないか。必要とあれば大量破壊兵器をも用いて、敵を破滅させようではないか。」 (CNN, 2001年9月14日)
- 「……もしわれわれの主力兵器のいくつかを使用することを恐れて、われわれの技術の活用を控え、われわれの武器の使用を控えて彼方に青年たちを赴かせ犠牲にしたとしたら、それは大きな過ちだ。彼らを打ち負かすために、保持しているすべての武器を――言いたくはないが、必要とあれば地獄的な武器でさえ――使うことを迫られるのだろうと考えている。」 (CNN, 2001年9月14日)
- 「われわれ国民全体は、神に罪を告白し、許しを請うとともに、きたる日々にわれわれが何をなすべきか、特に大統領について、神の知恵を探し求めなければならない。」 (CNN, 2001年9月14日)
[編集] 著書
- "Rebel With A Cause" (1995), 自叙伝
- "Living Beyond the Limits" (1998)
- "The Name" (2002)