フリードリヒ・シュレーゲル
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フリードリヒ・シュレーゲル(Karl Wilhelm Friedrich von Schlegel, 1772年3月10日-1829年1月11日)はドイツ初期ロマン派の思想家。文学、哲学、歴史、政治、宗教を包括する彼の思想の領域は広大であり、特にカトリックへの改宗はその思想内容に大きな謎を与えている。文学者・哲学者・文献学者として知られるアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルの弟。2人でシュレーゲル兄弟として知られる。妻のドロテーア・シュレーゲルは、啓蒙思想の哲学者・モーゼス・メンデルスゾーンの娘である。また、兄同様にサンスクリットにも通じており、東洋思想にも理解を示していた。
ハノーファーの生まれ。ルター派の牧師の子として生まれる。小さい頃から、シェイクスピア学者である伯父ヨハン・エリアス・シュレーゲルや兄の影響を受けながら育った。ゲッティンゲン大学とライプチヒ大学で法学の学生として在籍していたが、彼自身は古代文学および美学の研究に専念していた。1797年には、「ギリシア人とローマ人」を刊行。1798年には「ギリシア人とローマ人における詩の歴史」刊行。1800年から翌年にかけてイェナ大学私講師として講義「超越論的哲学」を行った。また、当地でロマン主義文学の基本精神を綴った雑誌「アテネーウム」(1798-1800)にエッセイや箴言などを寄稿・主宰。同誌で理論的・実践的に展開されるイロニーの概念は彼の初期思想のキイワードとなる。イェナは初期ロマン派の牙城となり、文学界・哲学界の双方に影響を与えた。小説・ルツィンデ(1799年)をこの頃に執筆。これは自由や愛・芸術の問題などのロマン的な事柄に触れた重要な書であるが、告白的文体で書かれたそのスキャンダラスな内容は物議を醸し、彼の詩人としての評価を下げることになる。
1802年には、パリへ行き、当地では哲学と東洋思想について講義した。これらの成果が、「インド人の言語と英知」(1808年)という画期的な書として結実され、名声を不動のものとする。この頃にローマ・カトリック教会に入信。(これは、ロマン主義が理想とした中世カトリックの世界に身を委ねたいという気持ちがあったとも言われている)その後、フランクフルトやウィーンに行き、政治家としても活躍。「歴史」「近代の歴史について」「新しい文学と古い文学の歴史」雑誌「コンコルディア」などをてがけた。また、1820年頃からは自身の全集の編纂を手がけ始めた。また、生涯に渡り何度も哲学の講義をしたこともあり、この成果が「生の哲学」(1828年)「歴史の哲学」(1829年)として残っている。1829年にドレスデンで死去。晩年は、カトリックに深く帰依し、神秘主義的な思想を目指していた。
彼のロマン主義理論と思想研究は、19世紀のドイツ文学界に多大な影響を与えた。
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[編集] 邦訳書
- ルツィンデ(Lucinde)
- アテネーウム断章・『ギリシア文学研究論』序
- 哲学の発展・言語と言葉の哲学(抄)
- インド人の言語と英知(抄)
- 共和制概念論
- 以上は「ドイツ・ロマン派全集」(国書刊行会)所収
- 「ロマン派文学論」(冨山房百科文庫)