マクスウェル・D・テイラー
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マクスウェル・ダヴェンポート・テイラー(Maxwell Davenport Taylor, 1901年8月26日 - 1987年4月19日)は、アメリカ合衆国の軍人、外交官。
テイラーはミズーリ州キーテスヴィルで生まれ、1922年にアメリカ陸軍士官学校を卒業した。
[編集] 第二次世界大戦
テイラーのアメリカ政府内での昇進は、第二次世界大戦初期における第82空挺師団でマシュー・B・リッジウェイ将軍の下から始まった。1943年にはその外交および言語能力からローマでの秘密任務に結びついた。彼は新しいイタリアの首相、ピエトロ・バドリオ元帥に会って第82空挺師団が降下してイタリア軍と共に行動する任務のコーディネイトを任された。ローマの近くに降下して占領する予定であったが、彼はそれが既に遅すぎるということを悟り、作戦は土壇場で中止された。ドイツ軍は予定された降下地帯をカバーするために既に移動していた。テイラーが降下の中止を報告したとき、輸送機は既に飛行中であった。
地中海戦役後にテイラーは、イギリスで訓練中の第101空挺師団に配属される。同師団の創立者および指揮官であったビル・リー少将が心臓発作を起こした後、テイラーは師団の指揮官に就任した。
テイラーは従卒と共にノルマンディへ降下し、連合軍の将官としてD-デイ当日最初にフランスの地に立った。彼はその後終戦まで第101空挺師団を指揮したが、その後同師団が参加した最も有名な戦闘であったバルジの戦いでのバストーニュにおける戦闘では、スタッフ会議に出席するため本国に帰国中で戦闘を指揮することはできなかった。彼の代わりにアンソニー・マコーリフ将軍が同師団を指揮した。落下傘兵のうちの幾名かはこの出来事からその後テイラーに憤慨した。
[編集] 戦後
その後彼は1949年から1951年までベルリンで連合軍総司令官を務めた。
1953年には朝鮮戦争に参加する。1955年から1959年まで彼は前上官のマシュー・B・リッジウェイを継いで陸軍参謀総長を務めた。陸軍参謀総長として彼は、歩兵師団の再編成により核兵器の時代における陸上戦力の削減を試みた。デービッド・ハックワース大佐のような観察者は、その試みがアメリカ陸軍における佐官クラスの将校の役割を意味のないものにしたとし、ベトナムでの戦闘に適合できなくしたとする。
テイラーは1959年7月に退役したが、ジョン・F・ケネディ大統領は彼を統合参謀本部議長として任命し、同職を1962年から1964年まで務めた。その後再び退役し、ヘンリー・カボット・ロッジJr.の後任として1964年から1965年まで南ベトナム大使を務め、ベトナム戦争のエスカレーションに関与した。彼は大統領特別顧問、国外情報諮問委員会委員長(1965 - 1969)、防衛分析研究所所長(1966 -1969)であった。
テイラーは筋萎縮性側索硬化症で1987年4月19日にワシントンD.C.で死去した。彼はアーリントン国立墓地に埋葬された。
[編集] 外部リンク
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