ミランダカメラ
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ミランダカメラとは、
- ミランダT(1955年-1959年)を始めとする全46機種のカメラブランド名。
- 国産初のペンタプリズム式一眼レフを製品化、販売したカメラメーカーのこと。
- イギリスの量販店、DIXONSで1980年頃から販売されたカメラ、カメラアクセサリーのブランド。35mm一眼レフ、35mmコンパクトカメラなどのほか、ビデオカムコーダー用品、バッグ、三脚など幅広く商品展開された。一眼レフはコシナ製だが日本へは正式に輸入された事はない。また、1976年倒産のミランダカメラとは関係しない。
以下では2についての説明を行なう。
[編集] 沿革
このメーカーは第二次世界大戦後に成立したベンチャー企業で、ミランダカメラの前身はオリオン精機産業有限会社(1948年-1955年)である。創業者の荻原彰(1920年-19XX年)は東京帝国大学工学部航空工学科出身で戦時中は海軍でジェットエンジン開発にあたった。
ミランダカメラの前身であるオリオン精機産業有限会社(1948年-1955年)は、カメラの修理改造、接写装置の開発、製造、それらの特許取得が主な業務であった。 一般的には無名であったオリオン精機は1954年、国産で二番目(試作機として)のペンタプリズム式一眼レフ「フェニックス」を発表したことでカメラ業界の耳目を集めることに成功した。 「フェニックス」はドイツ製カメラに同名品がある事と、ポピュラーな名称ゆえに起こりえる商標衝突を今後も回避するため 1955年8月に「ミランダ T」と改名して市販された。この"T"はテクノロジー【technology】の頭文字である。
なお改名にさいして「ミランダ」という名称の由来は開発者による説明があり、「MirandaのMirは…(中略)MirrorやMirade(ママ)のMir-で、レフカメラとしては妥当であり、語尾の-andaは女性的だが全体の調子を整え、やわらかな、快い響きをもっている」(掲載誌から引用)で、発売当時の文献では他に明確な説明は見つかっていない。 また同年、社名もオリオンカメラ K.Kと改められ、国産で初めて市販、量産されたペンタプリズム式一眼レフ製造メーカーの栄誉を担うことになった。
1957年、ミランダカメラに社名変更があった、このメーカーはオリオン精機からオリオンカメラ、そしてミランダカメラと名称が変わったのである。 好調な輸出に支えられ、戦後、雨後のタケノコのように設立されたカメラメーカーの中にあってもっとも成功した企業の一つであったが、既成カメラメーカーの厚い販売網に阻まれ国内販売には苦戦したとされ、1959年、新工場設立とともにリコー販売のチャンネルで販売拡大が図られたが1960年から1964年の5年間に渡り国内でのカメラ販売が中止された。
1965年に国内でのカメラ販売が再開される、国内販売中止の理由は「輸出用に生産を絞ったため国内販売が出来なかった」というコメントが発表されている。なお再販された機種はMIRANDA F、Automex IIIの二機種。またミランダには民生品以外にも研究者向けに特化したラボレックという機種もありこれには確固たるシェアがあった。
1968年に海外資本が参入、1969年、100パーセント海外資本となり、1976年12月倒産した。負債総額20億円と言われる。このミランダ倒産を皮切りに技術革新の対応に遅れたカメラメーカーでは経営不振が表面化しはじめた。 本社は東京都狛江市、営業所は六本木にあった。ミランダカメラが最後に発売した一眼レフはMIRANDA EE-2(1976年)とプラクチカマウントのTM-2(1976年)だが日本国内ではdx-3(1975年 一眼レフ)が正規では最後の販売であるとされる。
また、同社はSOLIGOR(ソリゴール)という別ブランドでも関連商品の展開をしており、ミランダカメラのレンズシステム、アクセサリーの一部にもソリゴールが含まれていた。