中井啓一
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中井 啓一(なかい けいいち、1924年 - 1991年8月15日)は、ヤクザ、暴力団・一和会最高顧問、中井組組長、元三代目山口組舎弟、高知市議会議員。
1924年、高知市に生まれた。大阪に出て専門学校卒業後、海軍に召集され終戦後 高知に帰った。 復員後、高知で不良の頭目となり、1954年頃、中井組を結成した。
当時 四国には、神戸市を本拠地とする2大勢力(三代目山口組と本多会)が先を争って進出し、各地で抗争(小松島抗争等)を繰り広げていた[1]。 そうした中、高知は戦前から山口組初代・山口春吉の兄弟分でもある鬼頭良之助こと森田良吉がいたこともあり、山口組と関係も近かったことから、群雄の一人であった中井も三代目山口組組長・田岡一雄の舎弟となった。当時は四国には本多会と縁のある団体が多かったが強固な地盤を築いていったとされる。
中井は高知市議会議員にも立候補し当選。議員としても地元有力者となっていった。 渡世でも中井組若頭には中山勝正を従え、高知で大きな勢力を持つに至った。 後に中山は豪友会を率い勢力を拡大したため、中井が山口組直参に推挙し中井組から独立していった。
1981年に田岡一雄、1982年に若頭・山本健一が相次いで亡くなると、4代目争いでは組長代行・山本 広を推した。1984年に一和会が分裂すると舎弟では唯一人参画、最高顧問となった。 一方かつての子分であった中山勝正は山口組に残り竹中正久四代目体制下で若頭の要職に就いたため、山一抗争に際して敵対せざるを得なくなった。
1985年に山口組の序列1位と2位である竹中と中山が同時に殺害される暗殺事件が起きると、高知は阪神地区と並ぶ激戦地となった。 しかし、抗争が長期化し一和会側が次第に不利になると、1988年10月に一和会を離脱し、後に渡世から引退した。 中井の離脱は、加茂田重政の一和会離脱とともに抗争の大勢を決する大きな分岐点となった。
引退後は静かに生活していたが、1991年8月15日に肺癌により死去した。享年67。