中華民国の政治
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- 近年の中華民国における政治的な出来事の詳細は総統民選期の中華民国を参照のこと。
中華民国の政治(ちゅうかみんこくのせいじ)は、中華民国が「全中国を代表する正当な国家」であることを大前提としている。そのために、1949年以降は中華民国の政治体制にさまざまな矛盾が生じるようになり、今日では改善が試みられている。
今日の中華民国における国家体制は、1947年制定の憲法の規定により、三民主義(民族独立、民権尊重、民生安定)に基づく民主共和制を採用している。1948年の蒋介石政権以来、中華民国では中国国民党による一党独裁体制が続いてきたが、87年7月以降は政治の自由化と民主化が急速に推進され、今日では国家元首から市町村の議会議員に至るまで国民の選挙によって選出されている。
なお、選挙権は満20歳以上、被選挙権は満23歳以上(立候補の対象によって異なる)の全ての中華民国国民が有している。
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[編集] 国内政治
中華民国の国内政治体制は、1947年12月に施行された中華民國憲法に基づいて構成されている。だが、この政治体制は中華民國政府が大陸部も支配していることを前提に創られたものであるため、中央政府の統治区域がほぼ台湾のみに限定されるようになってからはさまざまな矛盾が生じるようになった。そのために、1990年代に入ると徐々に矛盾解消のための改革が行われるようになり、現在では矛盾も小さくなりつつある。
[編集] 憲法
中華民国の憲法である「中華民國憲法」は、1946年11月に開かれた制憲国民大会で採択され、翌年1月に公布(同年12月に施行)された。この憲法の特色は、建国の父である孫文が提唱した三民主義を政治目標とし、国家権力を「政権」(選挙権、罷免権などの人民の権利)と「治権」(行政権、立法権などの政府の権力)に分けていることである。憲法は14章で構成され、全文は175条ある。
この中華民國憲法は、中華民国がまだ中国大陸部を統治していた時代に、大陸部の支配を前提に制定されたものである。そのために、中央政府の台湾移転後には、国民大会や立法院などの大陸部選出議員が、1949年以来の戒厳令実施や改選不可能を理由に終身議員(万年議員)になるなど不具合が生じるようになった。だが、このような状況は、1955年以降の中央政府の実効統治区域における民意を国政に反映させにくくしたために、李登輝総統が1991年から5回にわたって憲法の修正をおこなうことで、大陸選出議員の「終身(万年)化」の防止と国民大会議員・立法院議員・正副総統の直接選挙による選出により、中央政府の実質的な統治区域における民意がより強く反映されるようにした。
しかし、このような修正では満足せずに新しい憲法を制定しようとする動きがあり、陳水扁総統は任期期間である2008年までに実施する考えを明らかにしている。その第一段階として、2005年6月7日に憲法修正案が国民大会で四分の三以上の同意を得ることで可決された。その結果、立法院議員の半減と(基本的に日本と同様の)小選挙区比例代表並立制の実施・立法院における憲法修正案の可決条件を強化・公民投票による憲法修正案の再審査と国民大会の廃止・正副総統の弾劾権を司法院大法官に付与することが決定された。現在のところ、「第二次憲政改革」(憲法改正の回数をさすのではない)に向けた準備が総統府と行政院で行われている。
[編集] 中央政府
中華民国の中央政府は、中華民国総統、国民大会(現行憲法下で、廃止された)、五院(行政院、立法院、司法院、考試院、監察院)で構成されている。
[編集] 総統
中華民国総統(大統領)は、中華民国を代表する国家元首であり、同時に中華民国軍の最高統帥者でもある。任期は4年(再選出されれば併せて最長8年、3選は禁止)で、国民の直接選挙(台湾総統選挙)によって選出される。憲法制定当初、総統は国民大会によって選出され、任期も6年であったが、李登輝総統の憲法改正によって現在の仕組みに改められた。
なお、初代総統である蒋介石は、1948年制定の「動員戡乱時期」(中国共産党の反乱を鎮圧する時期)であることを理由として、第5代総統の任期途中である1975年に死去するまで、27年間に亘り総統職を務めていた。
[編集] 国民大会 (廃止)
国民大会は、かつては、国民の最高政権行使機関であり、立法院を通過した憲法修正案を再審査することを任務としていた。当初は任期を持った常設機関であったが、憲法修正案の再審査が必要になったときに臨時に選挙され、召集される非常設機関となり、2005年の憲法改正(賛成249票、反対48票)により廃止された。以下では、旧憲法体制下での国民大会について説明する。
中華民国が中国大陸を実行統治していた時代、国民大会は、各県・市・ならびに地域(蒙古、西蔵)、外国在留華人、職業・婦女団体から選出された代表によって選出されることになっていた。1947~1948年の選挙で大陸部から選出された議員が終身代表となったために実効統治区域の民意が反映されにくい状況が続いていたが、李登輝氏の総統就任後に各種改革が行われて4年ごとに全面改選が行われるようになった。憲法制定当初は総統・副総統の選挙・罷免権も持っていたが、憲法改正で1996年から総統の選出方法が国民の直接選挙になったためこの権限は廃止された。
議席は300。政党別比例代表制で選挙され、議員の国民会議における投票行動は所属政党の方針に従うものとされていた。 また、当選者の4人に一人を女性、30人に一人を先住民としなくてはならないと国民大会選挙法によって規定されていた。
[編集] 五院
中華民国では、三民主義の考えに従って「立法」、「司法」、「行政」、「考試」「監察」の五権分立制が採られており、五権それぞれに「院」が設置されている。
立法院は日本の国会に相当する最高立法機関で、法律の制定や予算の審議、会計審査や行政院が行う国政の監督を行っている。立法院は225人の立法委員(国会議員)によって構成され、立法委員は直接選挙で選ばれている。(詳細は中華民国立法院の記事を参照)
司法院は国家の最高司法機関で、各種訴訟の裁判や公務員の懲戒を担当している。司法院は15人の大法官で構成され、立法院の同意を経て総統が任命している。(詳細は中華民国司法院の記事を参照)
行政院は日本の内閣に相当する最高行政機関で、最高職は院長(首相)である。行政院は3つの段階に分かれており、第一段階は行政院会議、第二段階は8つの部(内政部、外交部、国防部、財政部、教育部、法務部、経済部、交通部。部は日本の省に相当。)と蒙蔵委員会、僑務委員会からなる行政機関、第三段階は行政院主計処、行政院新聞局とその他の下部部局(特別・臨時委員会も含む。)である。(詳細は中華民国行政院の記事を参照)
考試院は日本の人事院に相当し、すべての公務員の採用試験や任用、管理を行っている。考試委員の任期は6年で、立法院の同意を経て総統が任命している。なお、中華民国の公務員は考試院の採用試験と資格審査を受けることが法律で定められている。(詳細は中華民国考試院の記事を参照)
監察院は公務員の弾劾、糾明、及びに国政調査を行っている。監察院は29人の委員で構成されており、立法院の同意を経て総統が任命している。なお監察院の委員はかつて選挙で任命されていたが、大陸部選出の委員が終身委員化してしまったため憲法改正時に現在の仕組みに改められた。(詳細は中華民国監察院の記事を参照)
[編集] 地方政府
中華民国の行政区分に関しては、中華民国の行政区分を参照のこと。
中華民国では、憲法の規定(第十一条)に従って国内を「省(shěng)/直轄市(zhíxiáshì)」に区分し、更に省内を「県(縣、xiàn)/省轄市(shěngxiáshì)」に区分している。各行政区分にはそれぞれ地方政府(省政府、直轄市政府、縣政府、省轄市政府)が設置されており、中央政府(行政院)の下で一定程度の地方自治を認められている。
ただし、1955年以降の中華民国政府は、国共内戦の影響で統治領域が台湾省と福建省の一部の島嶼部のみに限定された為、省政府による地方自治が上手く機能しなくなった(詳細は各省を参照)。その為に、台湾省は憲法修正によって1998年12月20日をもって省としての機能を「凍結」された。台湾省の管轄内にあった「県」と「省轄市」は行政院内政部が監督することとなった。しかし、財政的には省レベルの税収を中央政府にとられ、直轄市として省レヴェルの税収を享受している台北市や高雄市との格差が大きい点に不満を持つ県・市も多い。なお、福建省政府は台湾省政府よりも若干早く、1996年1月15日をもって省としての機能を「凍結」されている。
[編集] 政党
1928年の南京国民政府成立以来、中華民国では中国国民党の一党独裁体制が長らく続いてきた。さらに、1949年の戒厳令実施以降は、国内での集会と結社の自由が制限され、新たな政党の結成も禁じられた。(これを「党禁」という。)だが、1987年の戒厳令解除、89年の「人民団体法」公布によって政党の結成が自由化され、2000年には史上初めて中国国民党以外の政党(民主進歩党)から総統が選出されるまでになった。
2003年4月の時点で内政部に登録されている政党数は99におよぶが、立法院に議席を有する主要四党は以下の通りである。
また、政策別に政党を区分すると、主要な政党は以下のようになる。
[編集] 外交
中華民国は1945年成立の国際連合に当初から加盟しており、安全保障理事会の常任理事国であった。1949年の台湾移転後は、「全中国を代表する国家」としての国際的地位の確保を求めて外交工作を展開し、中華人民共和国と新たに外交関係を持つ国とは即座に国交を断絶するという措置をとった(これを「漢賊不両立」という。)。中華民国が中国の国連代表であることについてソ連などがしばしば問題視したが、中華民国はアメリカなどの支持を得て国連での合法的地位を確保し続けた。
1971年に国連総会で決議された2758号決議(「国府追放・中国招請」のアルバニア案が基)によって、中国の国連での代表権が中華民国から中華人民共和国へと移ることとなり、中華民国は国連からの脱退を宣言した。その後、中華人民共和国を「中国を代表する国家」として承認する国が続出し、1972年に日本が、そして1979年にアメリカが中華民国と国交を断絶し、中華民国の国際的な孤立が深まった。そのために中華民国は外交に弾力性を持つようになり、国交を持たない国との間で貿易などの実質的関係を発展させ、各種の民間国際交流を奨励する一方で、他の国際組織での議席・権利の維持や既存の国交を持つ国との関係を強化するようにしていった。
1990年代に入ると、中華民国は「全中国を代表する国家」であることに固執せずに国際的地位を確保するという外交政策をとりはじめ、広範に国際組織に参加、活動することを目標とするようになった。これは、中華民国が主権国家であることを国際社会にアピールすることを目的としており、1993年から続いている国連再加盟運動もこの政策の一環であるといえる。だが、このような外交政策は中華人民共和国が主張する「一つの中国」に抵触する恐れがあり、両岸関係にも影響が及んでいる。
現在、中華民国と国交のある国は24カ国(2006年8月6日時点)であるが、他にも59カ国と香港に代表処や弁事処(実質的に大使館や領事館の役割を果たしている民間機構)を設置している。(2006年8月6日時点)なお、中華民国と公式な外交関係のある24カ国は以下の通りである。
- オセアニア:キリバス - ソロモン諸島 - ツバル - パラオ - マーシャル諸島-ナウル
- アフリカ:ガンビア - サントメ・プリンシペ - スワジランド - ブルキナファソ - マラウイ
- ラテンアメリカ:エルサルバドル - グアテマラ - コスタリカ - セントクリストファー・ネービス - セントビンセントおよびグレナディーン諸島 - ドミニカ共和国 - ニカラグア - ハイチ - パナマ - パラグアイ - ベリーズ - ホンジュラス
- ヨーロッパ:バチカン - (一時はマケドニア共和国とも国交をしてた)
[編集] 対米関係
中華民国にとって、華米関係は外交政策上の最重要事項である。そもそも、国共内戦で南京国民政府が敗北を期した出来事も、アメリカ合衆国が「中国白書」の発表により南京国府への支援を停止したことに一因があった。
1950年1月に台湾国民政府が台湾で活動を本格化した際、トルーマン大統領は台湾国府に対して、経済援助は実施するが軍事には干渉しないと明言した。その為、台湾国府は中共人民解放軍の台湾侵攻に対する危機感が高まったが、同年6月の朝鮮戦争勃発により状況は一変した。
[編集] 対日関係
戦後の正式な日華関係は1952年から始まる。1952年の日華平和条約締結によって、中華民国は日本と正式に国交を回復し、両国に大使館が設立された。だが、1972年に日本が中華人民共和国との間で国交を樹立(日中国交樹立)したことにより、中華民国は日本との国交を断絶し、両国間の正式な外交関係は終わった。
断交後、日華両国は民間機関を経由しての「間接外交」によって実質的な外交関係を維持するようになり、そのまま現在に至っている。これは、民間の機構に実質的な大使館や領事館の役割を与え、両国が外交上の便宜を「民間職員」に対して図ることによって成立しており、日本側は「財団法人交流協会」を、中華民国側は「亜東関係協会」をそれぞれ相手国に駐在させている。
なお、「亜東関係協会」は1992年5月から日本における名称を「台北駐日経済文化代表処」に変更しているが、中華民国での名称は「亜東関係協会」のままである。
また、前述の通り現在日本と国交がないため、訴訟などを起こす場合には実質アメリカを通し行われている。
[編集] 対モンゴル国関係
建国以来、中華民国はモンゴルを自国の領土として扱い、外蒙古と表記し、1924年にモンゴル人民共和国が成立以降も独立を認めなかった。
蒋介石率いる国民政府は、1945年6月のソ連との外交交渉の際に「ソ連が日本撤退後の満州を中国共産党に渡さず、かつ新疆の独立運動を鼓舞しないと約束するなら、抗日戦争勝利後に外蒙古が国民投票を経て独立することを認めてもよい。」と主張し、1946年1月に一旦はモンゴルの独立を承認した。
しかし、国共内戦中にソ連は、勢力を拡大した共産党だけを支持し、国民政府への支持を停止するという措置を採った。それが遠因の一つとなって国民政府(1948年以降は中華民国政府)は各地で内戦に敗れ、中国大陸におけるほぼ全ての領土を喪失した。その為、中華民国政府は1953年にソ連との間で結んでいた「中ソ友好条約」の正式な廃止を決定。これ以降モンゴルの独立承認も白紙に戻されたと解釈されることになった。
なお、近年では、台湾独立(台独)派であった陳水扁政権が、実質的にモンゴル独立を認め、2002年には外交部がウランバートルに台北貿易経済代表処を開設した。それにともない、台北にもモンゴルの貿易代表事務所が設立され、現在では両国の事実上の大使館として機能している。
[編集] 対中華人民共和国関係
中華民国々内の民主化以降、台湾化と呼ばれる住民の台湾人意識の昂揚や、台湾独立運動(台独運動)の活発化、あるいは2005年3月14日に、中華人民共和国による台湾の武力解放を容認した「反国家分裂法」が、第十期全国人民代表大会(全人代)で成立した事から、関係が緊張し、東アジア地域の不安定要素の1つとなっている。
なお、日本では、台湾海峡を挟んだ台湾の中華民国と、大陸側の中華人民共和国との関係を指す場合、「中台関係」と表記されるが、台湾と中華人民共和国の間では、特に「両岸関係」という独特の用語が用いられる。これは、中国における唯一の合法的政府を主張してきた両政府間では、中国と台湾を別の国として表記した印象を与える「中台」の表現を避けるための便宜的な表現。
- 台湾独立やいわゆる台湾問題に関する詳細は、台湾の政治を参照。
[編集] 関連リンク
[編集] 外部リンク
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- 中華民国の憲法(日本語)
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