久松定謨
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久松 定謨(ひさまつ さだこと、慶応3年9月9日 (旧暦)(1867年10月6日) - 昭和18年(1943年)2月19日)は、日本の陸軍軍人、華族。伊予松山藩主である久松家の当主で、歩兵第1旅団長・歩兵第5旅団長を歴任し、階級は陸軍中将正二位勲一等伯爵に至る。旧名鋹三郎。妻の貞子は島津忠義公爵の娘。長男の定武は貴族院議員・参議院議員を経て愛媛県知事を5期務める。定武の子定成は愛媛大学教授で靖国神社崇敬奉賛会会長。
伊予松山藩旗本、豊後守松平勝実と甲斐守池田長休の娘の三男として生まれる。明治5年伊予松山藩主松平定昭が逝去し、その遺言によって家督を相続する。明治16年11月フランスに留学する。明治17年7月7日伯爵の爵位を授爵し華族に列せられる。この時の位階は従五位。明治20年10月フランスのサンシール陸軍士官学校に入校し、明治22年8月同校歩兵科を卒業、同月陸軍歩兵少尉に任官される。久松は日本の陸軍士官学校は卒業していないが、士官生徒第11期に相当し教育総監菊池慎之助大将や奈良武次大将、西川虎次郎中将の同期に当る。明治23年1月から同年12月まで私費留学としてフランス陸軍のツール歩兵第66連隊附勤務する。明治24年12月に帰国し、近衛歩兵第2連隊附を命ぜられる。明治28年1月中尉に進級し、北白川宮能久親王が師団長を務める近衛師団副官を命ぜられる。明治28年4月から日清戦争に出征し同年11月に帰還。明治29年3月から近衛歩兵第2連隊附の身分でロシア出張を命ぜられる。同年8月小松宮彰仁親王附武官を命ぜられ、明治30年2月から参謀本部出仕を兼ねる。明治30年12月に大尉に進級し近衛歩兵第2連隊中隊長を拝命する。明治32年正四位に昇叙する。明治35年6月から参謀本部員に移る。同年8月フランス公使館附武官代理に就任、同9月に同武官心得に変わり、明治36年11月少佐進級と共に正式な駐在武官に昇格する。明治39年1月参謀本部附仰付、同年8月に帰国する。この年従三位に昇叙。明治40年7月から歩兵第3連隊大隊長を命ぜられ、同年11月に中佐に進級し歩兵第3連隊附に替わる。明治44年9月6日大佐に進級し歩兵第3連隊長に就任、大正3年正三位に昇叙、同5月11日から近衛歩兵第1連隊長に移る。大正5年8月18日陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に就任、大正6年8月6日から歩兵第1旅団長に移る。大正9年8月10日待命となり、同日陸軍中将に進級する。同年12月1日予備役編入。大正13年従二位に昇叙し、昭和11年には正二位に進む。昭和18年2月19日薨去。墓所は大林寺。
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