伊東長救
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伊東 長救(いとう ながひら、1662年5月28日(寛文2年4月11日)-1745年10月15日(延享2年9月20日))は、備中国岡田藩の第5代藩主。父は第4代藩主・伊東長貞(長救は長男)。母は大久保教勝の娘。正室は木下俊長の娘。側室に堀田氏。子に長丘、娘(小笠原貞通室→武田信胤室)。官位は従五位下、播磨守。
寛文2年(1662年)4月11日生まれ。元禄6年(1693年)、父の死去により家督を継いだ。ところが享保2年(1717年)、税や賦役の負担軽減を求めての新本義民騒動が起こった。長救はこの訴えを聞き入れる代わりに騒動の指導者4人を処刑している。そして自身もこの騒動で失意の内に享保8年(1723年)3月5日に家督を子の伊東長丘に譲って隠居し、浄山と号した。延享2年(1745年)9月20日、84歳の長寿をもって死去。法号は節翁院義功浄山。
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