伊藤宗看 (3代)
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三代伊藤宗看(さんだいいとうそうかん、1706年(宝永3年)-1761年6月2日(宝暦11年4月29日))は将棋指し。7世名人。幼名、政長。前名は、印寿。5世名人二代伊藤宗印の次男。
18歳のとき、家を継ぎ、先の名人、三代大橋宗与の死により23歳という最年少で7世名人を就位する。指し将棋、詰将棋ともに優れ、「鬼宗看」とも呼ばれる。御城将棋では、18勝6敗1持将棋と圧倒的な強さを誇った(名人就位前の戦績は10勝1敗)。
宗看の残した詰将棋作品集「象戯作物」(俗称:「詰むや詰まざるや」「将棋無双」)は、詰将棋史上の傑作とされる。これにより、詰将棋の水準は格段に上がったとされる。「象戯作物」は、8段昇段が早かったため異例の名人就位6年後に献上された。
また宗看作と伝えられる50図からなる中将棋の詰物集「中将棊作物」が残されており、その中には2000手を超えると推定される図も含まれているが解答はついておらず、その解が明らかになっていないものが多く、いまだに江戸の将棋文化の最大級の謎の一つとなっている。
元文2年には「碁将棋席次争い」を起こした。それまでは伝統として碁の家元が上。将棋の家元を下とする御城碁将棋の席順(つまり上下関係)をかえようとした。その頃は碁の家元は傑出した人物が出ず、低迷していたのに対し、将棋の家元は宗看を筆頭に、弟の看寿らがいて、勢いとしては、宗看の意見が通りそうであった。が、旧守派の大岡越前守が「そのまま」の判決を下したため、碁の家元側は命拾いした。
56歳で没すると、名人位は初めての空位となる。
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[編集] 象戯作物(将棋無双)
古今で最も難解とも言われるほどの作品集で、弟の看寿の「将棋図巧」と並んで詰将棋の最高峰とまでいわれる。
しかし、「象戯作物」の解答本はほとんど世に出回らなかったため、詰むかどうか長年棋界の謎とされてきた(解答は載っていなかった)が、昭和40年代に天皇に献上した原本が皇居内の内閣文庫で発見されるに至り、やっと解決した(原本には解答が付いていた)。これにより、最初から詰まない何題かがあったことが分かった。
[編集] 代表的な作品
- 十二番:盤上に攻め方がない「無仕掛」
- 三十番:古来より神局とよばれた奇跡のように美しい傑作
- 百番:象戯作物のトリを飾る超大作。「大迷路」の名の通り超難解である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 詰将棋博物館 象戯作物(館では将棋無双)の全作品。
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