佐藤敬夫
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佐藤 敬夫(さとう たかお、1935年6月4日 ‐ )は、日本の政治家。
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[編集] 概要
秋田県出身の元衆議院議員。成蹊高等学校、成蹊大学政治経済学部卒業。
1977年、新自由クラブから参院選全国区に出馬するも落選。その後、1986年の衆院選で自由民主党公認で初当選を果たす。1994年、同じ三塚派所属の先輩であった鹿野道彦らと政治改革を訴えて自民党を離党、新党みらいを結成した。その後、新進党、国民の声、民政党、民主党と政党を渡り歩き、2003年に熊谷弘らと民主党を離党、保守新党結成に加わる。皮肉にも結党直後の第43回衆議院議員総選挙で、佐藤の対抗馬として擁立された民主党の新人、寺田学に大敗し、落選。
中選挙区時代は長く自民党の二田孝治とライバル関係にあったが、小選挙区制に移行した2000年の総選挙では二田に敗れ、比例東北で復活当選を果たした。なお、2005年のいわゆる郵政解散に伴う第44回衆院選に自民党から比例区東北ブロックの名簿掲載順位最下位で出馬したが、落選。もっともこの出馬は佐藤の秋田市内の後援会に二田を支援させるためであったと言われている。
元運輸政務次官、元民主党国会対策委員長、元保守新党国会対策委員長などを歴任。
[編集] 発言
2002年の小泉初訪朝直後、辛光洙元工作員の釈放運動に民主党の菅直人議員が署名していたことについて、安倍晋三官房副長官が「マヌケ」と批判したことについて、当時民主党国対委員長であった氏は菅氏を擁護するとともに、安倍氏を激しく批判した。最も、安倍氏による拉致問題に関する発言に対し、「政治とカネ」の問題を挙げて反論していることから、親北朝鮮の発言というよりは、旧態依然の与野党の政争の域を出ないものであろう。
2002年10月21日 「安倍副長官の『間抜け』発言は断じて許さない」民主党佐藤国対委員長
民主党の佐藤敬夫国会対策委員長は21日、安倍官房副長官が19日に民主党の菅直人前幹事長、社民党の土井たか子党首と両党について「きわめてマヌケな議員」「ちゃんちゃらおかしい」などと発言したことについて、「地方ではキャンキャン言うくせに、国会では堂々と真正面から答弁しようとしない。このような発言は、政治家としての資質が問われる」と厳しく批判した。 安倍官房副長官の発言は、菅前幹事長と土井党首が、原敕晁さんを拉致した北朝鮮の元スパイ、辛光洙(シンガンス)元死刑囚の釈放を韓国政府に要求したことがあるという事実を挙げ、「土井たか子と菅直人はきわめてマヌケな議員なんです」と批判したもの。同氏はさらに、「社民党や民主党が、いかにも昔から拉致事件に取り組んでいるかのように、小泉純一郎首相の決断を批判するのはちゃんちゃらおかしい。彼らはまず反省すべきだ」と、両党にも批判を向けていた。 これに対して佐藤国対委員長は、問題の韓国政府への要求は13年前になされたものであり、当時菅前幹事長は社民連所属だったと指摘したうえで、「安倍副長官こそ、自分が平壌に行ったときには、総理の袖を引っ張って『帰りましょうよ』と言ったらしいが、こどもの使いじゃあるまいし。今回の補選での『政治とカネ』という本来の争点をぼかすために、北朝鮮問題を政治利用していることは明らかだ」とし、今後予算委員会などで安倍副長官を厳しく追及することを表明した。
[編集] 略歴
- 1977年7月 第11回参院選全国区に新自由クラブより出馬(51位、次点で落選)。
- 1980年6月 第36回衆院選、旧秋田1区に無所属で出馬(落選)。
- 1983年12月 第37回衆院選、自民党公認で出馬(落選)。
- 1986年7月 第38回衆院選、自民党公認で出馬、初当選。
- 1994年4月15日 自由民主党離党。18日結党の新党みらいを経て、12月10日新進党結党に参加。
- 1995年4月 秋田県知事選出馬(落選)。
- 1996年10月 第41回衆院選、新進党公認で出馬、当選し国政復帰。
- 1997年12月27日 新進党解党。国民の声、民政党を経て、4月民主党結成。
- 2000年6月 第42回衆院選、民主党公認で出馬、比例区復活当選。
- 2002年12月22日 民主党県連代表辞任、離党届提出(除籍処分)。25日保守新党結党。
- 2003年10月 第43回衆院選、保守新党公認・自公推薦で出馬、落選。
- 2005年9月 第44回衆院選、比例区東北ブロックへ自由民主党公認で出馬、落選。
- 2006年5月 旭日重光章 受章。