児玉誉士夫
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児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年2月18日 - 1984年1月17日)は、日本の右翼運動家で、A級戦犯に指名されたが後に釈放。後にはロッキード事件の被告となる。一般に右翼の大物、黒幕として知られ、「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
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[編集] 生い立ち
児玉誉士夫は、1911年に福島県安達郡本宮町(現本宮市)の没落した士族(旧二本松藩士)の家に生まれた。1920年8歳の時に朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後(なお、その後日本大学皇道科を卒業したということになっている)、工場の単純労働者として辛酸を舐めた。
[編集] 右翼運動
児玉は最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏によって創設された急進的な右翼団体「建国会」に加わった。すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まり、半年投獄された後、1932年には「独立青年社」を設立、当時の斎藤首相や閣僚の暗殺を計画して、3年半の懲役刑を受けた。
1967年7月、後に統一教会系の反共団体・国際勝共連合の設立につながる、「第一回アジア反共連盟(世界反共連盟の地域団体)結成準備会」が笹川良一の肝煎りで、山梨県本栖湖畔にある全日本モーターボート競走連合会の施設で開催された。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。
[編集] 児玉機関
1938年に日中戦争が始まると、外務省情報部の懇意の人物を通して採用され、その後海軍航空本部の嘱託となった。1941年真珠湾攻撃の直前、31歳の児玉は上海に「児玉機関」と呼ばれる店を出した。これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。右翼団体・大化会の村岡健次(後の暴力団北星会会長・岡村吾一)らが児玉機関で働いていた。中国人や満州人を銃で脅し、恐ろしく安い値で物資を獲得したため略奪と呼ばれた。この商社のような仕事はすでに三井、三菱などの大企業が入っていたが即決主義で集めたため現地では重宝された。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン高山を管轄下におさめ、農場や養魚場、秘密兵器向上も運営。ヘロインの取引の仲介もやっていたという。
この類の「○○機関」は当事大陸において非常に多く、前述の表の仕事と比して裏の仕事として中国側へのスパイ活動、抗日スパイの検挙や殲滅等を請け負っていた。一説には児玉が大陸で獲得したとされる膨大な資金はこれらの非合法な取締り(直接的には強盗殺害)によるものとされている。
児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。この間、1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に立候補するが、落選している。
[編集] 戦後から安保闘争前夜まで
終戦後、児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げた。講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となっていた。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に送られた。その間、アメリカは民主化のためにファシストを処刑、追放する方針を180度変え、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する「逆コース」と言われる政治的変換を行った。1948年末、釈放された児玉はCIAに協力するようになったと後にアメリカでも報道された。
上海から持ち帰った資金(現在の時価にして3750億円)を海軍に返還しようとしたというが、この資金は、調べられれば、汚れた金であることがわかった。それで、戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は、児玉に処分を依頼。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた有力右翼でヤクザの親分辻嘉六に勧められて、この資金の一部を鳩山ブランドの自由党の結党資金として提供した。児玉の同志には、辻の他に鳩山一郎、河野一郎、赤尾敏らがいた。1954年、河野を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には民主党と合併して自由民主党になった後も緊密な関係を保ち、1970年代半ばまで最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)と言われるようになった。
1950年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2(アメリカ諜報担当・参謀第2部)と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼を中心とした統一戦線の結集を目論んだ。
1963年には、三代目山口組・田岡一雄組長と東声会・町井久之会長(本名は鄭建永)との兄弟盃(田岡一雄組長を兄とする)を実現させた。東声会と山口組との結縁には、当初関東の諸組織が反発した。しかし、児玉誉士夫は関東の親分衆の説得に成功した。1963年2月に神戸市須磨区の料亭「寿楼」で行われた兄弟盃には阿部重作・住吉会名誉顧問、稲川角二・錦政会会長(当時)、関根賢・関根建設社長・松葉会顧問(元関根組組長)、磧上義光・住吉一家四代目総長兼港会会長ら関東の実力者が臨席した。
1963年12月21日[1]、、戦前から交流のある親分たちを説き、関東地区の暴力団における連絡団体「関東会」を結成した。関東会に参加したのは、錦政会、住吉会、松葉会、日本国粋会、義人党、北星会、東声会だった。しかし、関東会は第一次頂上作戦により、1965年1月に解散に追い込まれた。続いて、同年3月に錦政会と北星会、5月に住吉会、9月に松葉会が解散に追い込まれた。 1966年には日本国粋会、東声会が解散に追い込まれた。児玉誉士夫は右翼やヤクザ組織、政治家との繋がりによる「力」、様々な表、裏の資金源から得る「金」によって日本で最も影響力のある大物フィクサーにのし上がったとされる。
力道山が1963年に亡くなると、日本プロレスの会長に就任した。副会長には三代目山口組・田岡一雄組長と東声会・町井久之会長が就任した。
また、三代目山口組が横浜に支部(益田組)を出した時には地元勢力とトラブルとなった。 このトラブルで、山口組は力で“多摩川を越えない”という約束が、児玉誉士夫の調停により関根賢・松葉会顧問、阿部重作・住吉一家名誉顧問、並木量次郎・三代目並木一家総長、稲川角二・錦政会会長(当時)との間で交わされた、とされる。
[編集] アイゼンハワー訪日
1960年の日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約改正に前後したアメリカのアイゼンハワー大統領の訪日の際、大規模な反対運動(安保闘争)が予想されたため、自民党の非主流派である木村篤太郎らは、安保闘争の拡大を阻もうと、ヤクザ・右翼を使って運動を阻止しようとした。児玉はその世話役として行動している。新安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)の強行採決をきっかけにして起こった国内における岸政権に対する反発は政府が予想した以上に大きく、安保闘争が激化したため、日本政府はアイゼンハワーへ訪日を中止するよう要請した。しかし、この時に児玉は自民党に対し大きな貸しを作り、その結果自民党への影響力が表立ったものになるきっかけとなったと右翼陣営は宣伝しているが、官僚派はすでに破防法への道を開いていたため結果としてこれも無駄とされる。
[編集] 韓国との癒着
京城商業専門学校出身の児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる朴正煕とは満州人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの保守政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。
児玉が韓国人教祖の文鮮明が国際勝共連合を設立するのにつながる働きをしていたことは前節で述べたが、「朝日ジャーナル」によれば、米国では、文鮮明-児玉誉士夫-笹川良一などを通ずる関係が、米下院国際機関小委員会での証言で明らかになっていると言われる。
統一教会も朴政権の反共政策に呼応したため、保護を受けたと言われており、岸信介は統一教会に大変賛同的であったことは有名である。右翼の思想的指導者・安岡正篤も朴政権の国作りに共鳴している。
児玉誉士夫、町井久之ともに芸能界とのつながりも深く、特に三田佳子と親しい。なお、児玉の実姉が韓国に嫁いでいる。
[編集] フィクサー
日本国内では児玉は企業間の紛争にもしばしばフィクサー役として登場する。1972年河本敏夫率いる三光汽船はジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。三光汽船による株買占めに困惑したジャパンラインの土屋研一は当時銀座4丁目の雑居ビルに事務所を構えていた児玉に事件の解決を依頼した。報酬は現金1億円だった。しかし、児玉が圧力をかけても、三光汽船の河本敏夫はなかなかいうことを聞かなかった。これではフィクサーの面目がつぶれることから、児玉は結局そごう会長の水島廣雄に調停を依頼する。水島の調停により、三光汽船の河本敏夫は買い占めたジャパンライン株の売却に同意する。児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。この件が代表するように、児玉が介入した乗っ取り事件は数多い。
他にもインドネシアへの政府開発援助では東日貿易秘書としてスカルノ大統領の夜の相手に選ばれたクラブホステス根元七保子(源氏名はデビ、後の通称デヴィ夫人)を送り込んで荒稼ぎをしている。
[編集] ロッキード事件
[編集] ロッキード代理人
児玉はすでに1958年からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった。1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。児玉は韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。韓国に対する影響力の大きさが窺える。しかし、この頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった。
そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮した。1972年に田中角栄が首相になると児玉の工作は効を奏し、全日空はすでに決定していたマクドネル・ダグラス社製のDC-10型旅客機の購入計画を破棄し、ロッキード社のL-1011トライスターの購入を決定。この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。
[編集] ロッキード裁判
しかし1976年、アメリカ上院で行われた公聴会で、ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている事実があきらかにされ、日本は大騒ぎとなった。65歳の児玉はすぐに発作を起こし、床についた。同年3月23日、かつては児玉に心酔したこともある29歳の日活ロマンポルノの俳優、前野光保がセスナ機で「国賊」となった児玉の豪邸に自爆攻撃を敢行したが、運よく児玉は別の部屋に寝ていて助かった。しかし、間もなく児玉は脱税と外為法違反で起訴され、裁判に臨むことになった。1977年6月に一度公判に出廷した後は病気と称して自宅を離れなかった。元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され、1983年10月に有罪判決が出された。それでも田中は1985年に重い脳卒中で半身不随になるまで、闇将軍として自民党に君臨した。一方、72歳の児玉は1984年1月に再び発作を起こして世を去った。
[編集] その他
村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』には、明らかに彼をモデルとする右翼の大物「先生」が登場する。
[編集] 註
- ^ 「第046回国会 法務委員会 第30号」と「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」では、結成披露日を12月21日と記載されているが、山平重樹『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9では11月21日と記述されている
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 「山口組50の謎を追う」(洋泉社) 2004年 ISBN 4-89691-796-0
- 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」
- 「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」
- 山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫> 2003年 ISBN 4-344-40476-9