堀悌吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀 悌吉(ほり ていきち、1883年(明治16年)8月16日 - 1959年(昭和34年)5月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。大分県杵築市出身。
目次 |
[編集] 略歴
旧制大分県立杵築中学校より海軍兵学校第32期入校。入校時成績順位は190名中第3位、卒業時成績順位は192名中首席。
海軍大学校卒。山本五十六の親友でもある。兵学校時代、クラスメートの句に「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」というものがあるほどの才能の持ち主であり、兵学校、海軍大学校はおろか、水雷学校、砲術学校までも恩賜で卒業した。また、「武」だけでなく、「文」の面でも長け藝術をよく好んだという。
1930年のロンドン軍縮会議において、堀はとりあえずの国際協調が軍備増強より大切だとした。このとき補助艦の数は米英に対し7割は必要という意見が根強かった(艦隊派)。しかし堀は、英米に対しては不戦が望ましいという意見をもち、アメリカのいう日本の対英米比6割受諾という立場にたった(条約派)。結局は、アメリカと日本の妥協が成立し、日本は対英米比6割7分5厘で、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。
その後、海軍内での艦隊派の台頭もあり堀の立場は弱くなった。中央から遠ざけられ、第3戦隊司令官、第1戦隊司令官を歴任し1933年(昭和8年)中将昇進、翌年に予備役に編入された。このとき山本は、海軍は大変な人材を失ったと悲しんだという(「海軍にとって、巡洋艦戦隊と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか」とまで嘆いたとされる)。この年の同じく12月、ロンドン海軍軍縮条約が失効し、日本は無期限軍備拡張の時代に突入した。(大角人事)
太平洋戦争(大東亜戦争)中、堀は日本飛行機や浦賀ドックの社長に就任した。
戦後は公職追放指定を受けたが後に指定解除された。
[編集] 年譜
- 1883年(明治16年)8月16日- 大分県速見郡杵築町(現在の杵築市)生
- 1901年(明治34年)12月- 杵築中学校退学
- 12月16日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位190名中第3位
- 1904年(明治37年)11月14日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位192名中首席・任 海軍少尉候補生・韓崎丸乗組 日露戦争勃発に拠り遠洋航海中止 近海航海限定
- 1905年(明治38年)1月3日- 戦艦「三笠」乗組
- 1906年(明治39年)2月26日- 姉川丸乗組
- 1907年(明治40年)1月18日- 巡洋戦艦「筑波」乗組
- 1908年(明治41年)4月20日- 海軍水雷学校普通科学生
- 7月31日- 通報艦「淀」乗組
- 1909年(明治42年)4月1日- 通報艦「淀」隊長心得
- 1910年(明治43年)5月23日- 海軍砲術学校高等科第6期学生
- 1911年(明治44年)12月15日- 横須賀鎮守府附軍法会議判士
- 1913年(大正2年)1月10日- フランス駐在陸海軍観戦武官
- 1914年(大正3年)12月1日- 任 海軍少佐
- 1915年(大正5年)3月25日- 帰朝
- 1918年(大正7年)11月26日- 海軍大学校甲種卒業 卒業時成績順位20名中首席
- 12月1日- 海軍省軍務局員
- 1919年(大正8年)12月1日- 任 海軍中佐
- 1921年(大正10年)9月27日- ワシントン軍縮会議全権随員
- 1922年(大正11年)2月6日- 横須賀鎮守府附
- 1923年(大正12年)11月20日- 軽巡洋艦「五十鈴」艦長心得
- 12月1日- 軽巡洋艦「五十鈴」艦長
- 1924年(大正13年)3月6日- 海軍省出仕・官房服務兼軍政調査会幹事
- 1925年(大正14年)10月24日- 軍令部出仕
- 11月24日- 外務省事務嘱託 フランス出張
- 12月1日- 軍令部参謀
- 1926年(大正15年)2月1日- 国際連盟陸海軍問題常設諮問委員会 日本海軍代表
- 5月25日- 軍備縮小委員会準備委員会 日本海軍代表
- 1927年(昭和2年)4月26日- 兼 ジュネーヴ軍縮会議全権随員
- 1928年(昭和3年)12月10日- 任 海軍少将・第2艦隊参謀長
- 1929年(昭和4年)9月6日- 海軍省軍務局長兼将官会議議員
- 1930年(昭和5年)4月2日- フランス レジョンドノールコマンド勲章授章
- 1931年(昭和6年)11月2日- 軍令部出仕
- 12月1日- 第3戦隊司令官
- 1932年(昭和7年)11月15日- 第1戦隊司令官
- 1933年(昭和8年)11月15日- 任 海軍中将・軍令部出仕
- 1934年(昭和9年)4月29日- 勲2等旭日重光勲章受章
- 12月10日- 待命
- 12月10日- 予備役編入
- 1936年(昭和11年)11月4日- 日本飛行機取締役社長就任
- 1941年(昭和16年)11月29日- 日本飛行機取締役社長辞任
- 12月1日- 浦賀ドック取締役社長就任
- 1942年(昭和17年)1月10日- 大日本兵器取締役就任
- 1945年(昭和20年)11月16日- 浦賀ドック取締役社長辞任
- 11月20日- 大日本兵器取締役辞任
- 1947年(昭和22年)11月28日- 公職追放令該当指定
- 1951年(昭和26年)1月24日- 新海軍再建委員会顧問
- 1952年(昭和27年)2月25日- 公職追放令該当解除
- 1959年(昭和34年)5月12日- 東京世田谷で死去 享年76
-
- 墓所は東京世田谷豪徳寺、及び、故郷大分県杵築市八坂生桑生家裏山に分骨
[編集] 主要著述物
- ロンドン軍縮会議と統帥権問題
[編集] 参考文献
- 堀 悌吉資料集・上下巻(芳賀 徹監修・水交会)
- 不遇の提督 堀 悌吉 山本五十六、井上成美が尊敬した海軍の逸材の生涯 (宮野 澄著・光人社) ISBN 4-7698-0535-7 C0095
- 海軍の逸材 堀 悌吉 海軍良識派提督の生涯 (宮野 澄著・光人社NF文庫) ISBN 4-7698-2120-4 C0195
- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井 篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
- 山本五十六(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300415-0 C0093
- 米内光政(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300413-4 C0093
- 井上成美(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300414-2 C0093
- 高木惣吉日記と情報・上下巻(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代資料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野寺 誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)