士会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
士会(しかい、生没年不詳)は中国春秋時代の晋の武将、政治家。姓は杜、氏は士、もしくは封地から随、范、諱は会、字は季。謚は武。士蔿の孫。范武子とも呼ばれる。士燮(范文子)、士魴の父。
城濮の戦いの後に晋軍が帰還するとき、文公に車右に指名された。
襄公の死後に、正卿趙盾の命によって秦にいた公子雍を新たな晋君として迎えるために、卿の先蔑とともに秦に向かったが、士会たちが秦にいる間に晋では襄公の子の夷皋を立てる動きが強くなり、士会たちは急遽晋へと呼び戻され、趙盾も心変わりして夷皋を立てて霊公とした。
何も知らずに晋へとやってきた公子雍を趙盾は令狐にて攻撃し、士会はこれに怒って秦へと亡命した。
士会は3年の間秦に留まり秦康公に仕えたが、同じく晋から亡命してきた先蔑には一度も会わなかった。
その後、士会は晋の策略により晋へ連れ戻される。 鄭を救援するために晋が出兵したさいには、終始楚の荘王との和睦を主張するも邲の戦いが起こる。 中軍の将を務めていた荀林父が、楚軍の猛攻に対応しきれず、「一番早く河を渡って退却したものに褒美を出す」と全軍に布告したので、晋の中軍と下軍は壊滅し、晋軍は大敗した。 しかし士会の指揮する上軍のみは損害を出すことなく退却に成功している。
後に正卿(宰相)に就任した際、士会の手腕をおそれて、盗賊がみな秦に逃亡したという記述が春秋左氏伝にみられる。宰相の位は2年間で引退するものの、春秋左氏伝は「晋の歴史上、士会こそが最高の宰相である。」と士会を絶賛している。
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | 中国史の人物 | 春秋戦国時代の人物