大島義昌
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大島 義昌(おおしま よしまさ、嘉永3年8月15日 (旧暦)(1850年9月20日) - 大正15年(1926年)4月10日)は、日本の陸軍軍人。関東都督、軍事参議官、第3師団長等を歴任する。官位は陸軍大将正二位勲一等功二級子爵。
長州藩士大島慶三郎の長男。明治3年4月に大阪青年学校生徒となり、明治4年8月陸軍少尉心得に任官され、歩兵第4連隊付を命ぜられる。同年中に中尉心得・大尉と進み、明治6年5月歩兵第1連隊大隊長を経て明治10年の西南戦争では陸軍少佐・歩兵第8連隊第1大隊長として出征する。戦後中部監軍部参謀、仙台鎮台歩兵第5連隊長・同鎮台参謀長心得等の後明治19年4月陸軍大佐に就任する。明治20年6月東京鎮台参謀長に就任し、明治21年5月東京鎮台が第1師団に改編されるとそのまま第1師団参謀長に就任する。
明治24年には陸軍少将に進み歩兵第9旅団長に任命される。明治27年6月東学党の乱が発端となる朝鮮出兵に派遣され、続く日清戦争では第1軍隷下に移り参戦する。この時の功により明治28年8月男爵を授けられ華族に列せられる。対馬警備隊司令官の後明治31年2月陸軍中将・第3師団長に任命される。
第3師団長のとき日露戦争が起こりこれに出征する。戦後陸軍大将に進み新設の関東都督に就任する。明治40年には子爵に陞爵し、明治44年9月から軍事参議官を兼ねた。明治45年4月に関東都督を福島安正と代わり、改めて軍事参議官を補される。同6月勲一等旭日桐花大綬章受章。大正4年8月後備役に編入され、大正9年4月退役する。
嗣子陸太郎は陸軍少将に進む。2人の娘はそれぞれ駐フランス大使・駐ドイツ大使長岡春一、陸軍軍医監本堂恒次郎に嫁ぐ。
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