大泉黒石
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大泉黒石(おおいずみこくせき 1893年(明治26年)10月21日 - 1957年(昭和32年)10月26日)は日本のアナキスト作家、ロシア文学者。自称「国際的の居候」。
[編集] 来歴・人物
長崎県八幡町(現在の長崎市)八幡神社境内にて、ロシア人アレクサンドル・ステパノヴィチ・ヤホーヴィチと日本人本山恵子の間に生まれる。日本名、大泉清。ロシア名アレクサンドル・ステパノヴィチ・キヨスキー。
父はロシアの農家の出でペテルブルク大学出身の法学博士。ロシア皇帝の侍従として来日した折、日本側の接待役だった恵子(ロシア文学研究家)と知り合い、周囲の反対を押し切って結ばれた。
恵子は産後の肥立ちが悪く、清を産んでから一週間にして死去(享年16)。このため、清は母方の祖母に引き取られ、大泉姓を継いだ。
小学校3年まで長崎で過ごしたが、漢口の領事をしていた父を頼って大陸に渡ったところ、まもなく父とも死別。このため、父方の叔母に連れられてロシアに行き、モスクワの小学校に編入。(ロシアでは近所にレフ・トルストイがいた。)その後、フランスに移り、パリのリセに数年間在学したが停学処分を受け、スイスやイタリアを経て日本に戻り、長崎の鎮西学院中学を卒業。さらにロシアへ戻り、ペトログラードの学校に在学したが、ロシア革命の混乱を避けて帰国し、旧制第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に入学。在学中、幼馴染の福原美代と結婚。
その後三高を退学し、1917年に上京。旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)に在籍したが、まもなく退学した。
石川島造船所書記から屠殺場番頭に至る職を転々としつつ小説家を志し、1919年、当時の「中央公論」誌編集長滝田樗陰に認められて、同誌に特異な自伝『俺の自叙伝』を連載し脚光を浴びる。
以後、ベストセラーになった『老子』、その続篇『老子とその子』、『人間開業』『人間廃業』などを世に送り出して文壇の寵児となったが、1926年頃から超国家主義的な世相や混血児への差別などを背景に文壇で疎外されるようになった。
ロシア文学者としての著書に『ロシア文学史』。1988年、『大泉黒石全集』が緑書房から刊行された。