天野元政
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天野 元政(あまの もとまさ、1559年(永禄2年) - 1609年6月1日(慶長14年4月29日))は、安土桃山時代の武将で。毛利元就の7男。母は穂井田元清・毛利元総と同じく乃美大方。少輔六郎、六郎左衛門尉、掃部守、讃岐守。
天野氏は鎌倉時代の天野遠景を祖とする安芸国の国人であったが、1569年、天野氏当主の天野元定が死去した後、家督をめぐって家中に内紛が起きることとなった。この事態を収拾するため、毛利元就がこの内紛に介入、元就の7男である元政を元定の養嗣子として家督を継がせることで、事態を収拾したのである。
1578年の上月城攻防戦でも抜群の戦功を上げ、その後も朝鮮出兵や1600年の関ヶ原の戦いにも参戦している。
後に元政は毛利姓に戻り、周防国右田13000石を領し、右田毛利家の祖となった。
元政は孝の心が厚く、父の元就の抜け落ちた歯を貰い受け、常に肌身離さず持ち歩いていたと言われている。
[編集] 関連項目
- 天野氏