奥保鞏
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奥 保鞏(おく やすかた、弘化3年11月19日(1847年1月5日) - 昭和5年(1930年)7月19日)は、明治の大日本帝国陸軍の軍人。官位は元帥陸軍大将伯爵。
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[編集] 生涯
豊前小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門の長男として豊前国小倉に生まれる。幼名為次郎。15歳のとき本家を養子相続し、馬廻・知行三百石となって七郎左衛門と改名。
幕末は幕府側に立つ主家に従い、長州征伐に参加。明治維新後、陸軍に入営。
明治4年(1871年)に陸軍大尉心得となり、以後佐賀の乱の平定、台湾出兵、神風連の乱の平定に参加。
明治10年(1877年)の西南の役では陸軍少佐として熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり、2月21日からの熊本城籠城戦に参加。4月8日未明、歩兵1個大隊を率いて薩摩軍の包囲を突破し、薩摩軍の後方に上陸した政府軍(衝背軍)との連絡に成功した。この際、敵弾が口から頬にかけて貫通したが、左手で傷口を押さえ右手で軍刀を持ってひるまず指揮した。
明治27年(1894年)の日清戦争では野津道貫の後任として第5師団長となる。明治29年10月14日に第1師団長、明治30年10月27日に近衛師団長、その後、東京防御総督を歴任。
明治36年(1903年)に陸軍大将となる。
明治37年(1904年)に開戦した日露戦争には第2軍司令官として出征。(戦歴は後述。)
昭和5年(1930年)7月19日没。享年85(数え)。
[編集] 人物像
奥は佐幕藩出身であり、しかも長州藩と直接戦火を交えた小倉藩士でありながら、陸軍内で異例の抜擢を受け続けた。これはひとえに奥自身の指揮統帥能力及び古武士に例えられる謙虚な性格によるものである。
日露戦争において、軍司令官や参謀長人事は薩長出身者がほとんど独占したが、「奥だけは外せまい」というのが陸軍部内の一致した見方であった。4人の軍司令官のうち、参謀なしで作戦計画を立てられるのは、奥だけだった。奥は実は耳が不自由で、司令部では幕僚と筆談でコミュニケーションをとったとのことだが、奥の能力に影響を及ぼすことはなかったらしい。
後年、非薩長出身者としてはじめて元帥となったが、この時も異論を唱えるものが誰もいなかったと言う。
奥は生涯自分の戦功などを語ったことがなく、むしろ功績を消そうとすることもあったらしい。日露戦争終戦後凱旋した際、日の丸を揚げてバンザイを叫ぶ人々の姿を見て、「済まぬ、許してくれ」(父親や兄弟達を大勢殺してしまった自責の念と思われる)と呟いたという逸話が残っている。天性の軍人らしく、政治向きのことには一切興味を示さず、静かな晩年を過ごした。それ故世間からは忘れ去られがちで、死去したときも「まだ生きていたのか」と驚く人が少なくなかったという。
[編集] 日露戦争での戦歴
[編集] 南山の戦い
第2軍は第1師団、第3師団、第4師団、騎兵第1旅団で編成され、清国遼東半島における拠点として大連を確保することを目的とした。
5月5日から13日にかけて遼東半島に上陸し、5月26日午前5時からロシア軍の陣地である南山への攻撃を開始した。第2軍はロシア軍の堅固な防塁と機関銃の斉射により大苦戦となったが、奥は攻撃を断念せず苛烈に攻めた。午後5時になり海軍の砲艦による艦砲射撃も加えた突撃を行い、午後8時にようやく南山を占領した。この時の死傷者は4,387名にのぼり、損害数を聞いた東京の大本営は「ゼロが1つ多すぎるのではないか」と耳を疑ったという。この戦いにより、「南山の奥」としてさらに勇名を馳せることになった。
[編集] 得利寺の戦い
大連占領後、旅順攻撃を行う第3軍へ第1師団が移り、編成替えにより第3師団、第4師団、第5師団、野戦砲兵第1旅団、騎兵第1旅団を指揮下とし、第2軍は遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍4万と遼陽南方210キロメートルにある得利寺で激突した。2日間にわたる戦闘で、第2軍は側面攻撃を有効に用いて自軍より兵力の大きいロシア軍を撃退した。これにより、旅順要塞の孤立が決定的になった。
[編集] 遼陽会戦
得利寺での勝利後、新たに第6師団を指揮下に加え、蓋平、大石橋での戦闘に勝利した。その後第5師団が第4軍指揮下となって去ったが、8月4日までに遼陽をうかがう位置まで前進した。24日の第1軍に続き、第2軍は第4軍とともに25日に作戦行動を開始した。鞍山站は抵抗なく占領でき、続いて攻めかかった首山堡は頑強な抵抗に遭遇し、屍山血河の惨烈な戦闘となった。後に軍神第1号となった第3師団歩兵第34連隊第1大隊長の橘周太少佐が戦死したのも、この首山堡であった。31日朝に1度占領するも奪還され、第2軍は崩壊の危機に面したが、9月1日の第1軍によるロシア軍左翼への側面攻撃に動揺したロシア軍を追撃し、4日朝までに遼陽一帯を占領することができた。
[編集] 沙河会戦
10月2日、日本軍の補給欠乏を見越したロシア軍が反転攻勢に出た。迎え撃つ日本軍は右翼第1軍を軸とした旋回包囲作戦を開始し、左翼の第2軍は10日より果然前進した。特に13日から14日にかけて、沙河左岸一帯において夜襲につぐ夜襲という猛烈な攻撃をかけた。この攻撃により、ロシア軍首脳部は大きな誤解をした。日本軍には豊富な予備隊があるに違いないと判断したのである。さらに17日まで攻撃を続行すると、ロシア軍は退却を開始した。しかし戦力の限界にあった第2軍に追撃する余力はなかった。
[編集] 黒溝台会戦
1月25日、日本軍最左翼を守備していた第2軍所属の秋山支隊8000(秋山好古少将指揮、騎兵第1旅団を中核とした歩・砲・工兵混成部隊)にロシア軍10万が攻撃を開始した。秋山支隊は右翼から李大人屯、韓山台、沈旦堡、黒溝台の4陣地を軸として頑強に抵抗し、満州軍総司令部は予備隊の第8師団を援軍として急派したが、第8師団司令部の敵情誤断により黒溝台陣地の放棄を強制され、しかも第8師団自体も26日に逆襲包囲されるという事態に陥った。第2軍は靡下の第3師団を派遣したが、満州軍総司令部の兵力逐次投入、急遽臨時軍編成という愚策に踊らされ、速やかな作戦行動ができなくなった。ようやく28日にいたり、第3師団と第5師団が秋山支隊右翼陣地のロシア軍を撃退した。黒溝台陣地も第8師団及び第5師団による大夜襲を決行し、ロシア軍は潰走した。
[編集] 奉天会戦
2月22日に鴨緑江軍による行動開始に始まり、第2軍は第3師団、第4師団、第6師団、第8師団、秋山支隊及び3個後備旅団を指揮下におき、日本軍中央左翼を担当して2月27日から砲撃を開始、3月7日まで攻撃を続行したが、ロシア軍の抵抗は激しく前進がままならなかった。ところが7日深夜になり、突如ロシア軍が退却を始めた。日本軍に包囲されると勘違いしたロシア軍首脳部が、中央の部隊に退却命令を出したのである。8日から猛烈に追撃戦を行い、10日に第2軍は第4軍とともに奉天を占領した。しかし、それ以上の攻撃余力がなく、この会戦が事実上日露戦争最後の陸戦となった。
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