安倍貞任
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安倍貞任 (あべのさだとう、寛仁3年(1019年)? - 康平5年9月17日(1062年10月22日))は、平安時代の武将。安倍氏の棟梁・父は奥六郡の俘囚長安倍頼時で第2子。兄弟に安倍宗任、安倍家任、安部行任ほか、義弟に妹婿の藤原経清。子に千代童子、春童子。厨川次郎。
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[編集] 伝記
半独立的な勢力をもつ安倍氏に対し、1051年に京都の朝廷から派遣された源頼義・義家との争いに端を発し、以降12年間にわたり東北各地に善戦する(前九年の役)。国府側との停戦中の1056年に、阿久利川において藤原光貞の営舎が襲撃される事件が起こると、頼義は張本人と断定された貞任の身柄を要求し、安倍氏がこれを拒絶して再び開戦となる。
妹婿の藤原経清の協力も得て、1056年には衣川の戦いに勝利。1057年には父の頼時が戦死するものの、11月には河崎柵に拠って頼義勢を撃破。1062年、国府側が清原氏と結ぶと劣勢となり、9月には厨川の戦いに敗れて斬首された。その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた(この故事に倣い、後年源頼朝によって藤原泰衡の首も同様の措置がされた。平泉の中尊寺に現存する泰衡の首には、釘の跡が残っている)。
衣川の戦いにおいては、源義家と和歌の問答歌をしたとされる逸話も知られる。
[編集] 後裔
津軽地方の豪族・安東氏(のち秋田氏)は貞任の子、高星の後裔を称した。
[編集] 史料
『陸奥話記』
[編集] 関連項目
- 映画
- 『安倍貞任』:1915年(大正4)
- TVドラマ