山口登
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山口 登(やまぐち のぼる、1902年 - 1942年10月4日)は、ヤクザ、暴力団・二代目山口組組長。兵庫県神戸市灘区出身。初代組長・山口春吉の長男(5人妹弟[要出典])。
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[編集] 来歴
大正14年(1925年)、実父である山口春吉の引退により23歳で山口組2代目を継承した。この時、山口組は まだ、大島組の系列組織だった。跡目相続の儀式は、大島組幹部・浦安五助の仲人で行われた。山口春吉の手から離れ、新しく山口登の子分となった者は、34人だった。「山口組二代目親分相続披露宴」は、神戸市須磨区の料亭で行われた。披露宴には、主筋の大島組組長・大島秀吉を始め、大島組幹部や兵庫県議会議員、神戸市議会議員などが出席した。難波島之助が参謀格となった。
その後、大島組への上納金をやめたため、昭和4年(1929年)1月に、大島秀吉から破門された。
昭和5年(1930年)3月、神戸市が兵庫区浜新町に中央卸売市場の建設を計画した。この利権を巡り、山口組は大島組と対立。同年5月、山口組の刺客・田尻春吉が大島組の川端勝次を射殺した。同年8月7日に、山口組事務所を、兵庫区西出町から同区切戸町に移した。ここは大島組の縄張りで、中央卸売市場建設予定地の近所であった。昭和7年(1932年)7月、山口登のいた須磨の待合が、大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、山口登本人は難を逃れた。抗争の末、山口組は中央卸売市場の利権を獲得し、大島組から独立した。
それから、山口組の新しい資金源として、浪曲興行に着目した。神戸市議会議員・福森庄太郎に相談すると、福森から浪曲師・松風軒栄楽と鬼頭良之助(本名:森田良吉。父・春吉の兄弟分)を紹介された。昭和9年(1934年)7月、四国で、松風軒栄楽の花興行を催した。この松風軒栄楽のマネージャーである庄村吉之助を引き抜き、彼を支配人に据えて、山口組興行部を作った。また、庄村の側に、若衆の笠種次を付けた。
同年8月、海員争議が起こり、会社側から紛争解決の調停役を依頼された。山口組舎弟の西田幸一と田尻春吉が、山口登の代理人として会議に出席した。話し合いがこじれ乱闘となり、西田は殺害され、田尻も重傷を負った。その知らせを受けた田岡一雄(後の山口組三代目[1] )が、岡精義とともに、海員組合争議本部に乗り込み、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた。田岡は傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。
昭和9年(1934年)9月3日、庄村と笠を伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。
昭和9年(1934年)10月13日から、吉本せいが東京・新橋演舞場で大阪漫才公演を開催すると、この東京興行の応援に駆け付けた。翌日、吉本せいから“自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい”と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいと共に、東京 浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、虎造を吉本興業の専属にすることと、虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。
昭和11年(1936年)1月20日、昭和10年(1935年)10月に神戸刑務所から出所した田岡を二代目山口組の正式な若衆とした。
その後、若衆の大長政吉(通称:悪漢政。二代目山口組若衆頭・大長一雄の弟)を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためであった。昭和12年(1937年)2月25日、この大長政吉が、新開地の菊水館で、支配人(元、春吉の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。菊水館の用心棒だった山口組の若衆・山田久一は、田岡とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。2人は大阪楼を急襲した。田岡が大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。これに激高した大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、その日のうちに、切戸町の山口組事務所に殴り込んできた。田岡が大長八郎を日本刀で斬り殺した。田岡は同年2月27日に、懲役8年の実刑判決を受け、服役した。
昭和15年(1940年)7月、広沢虎造が吉本興業に無断で下関・籠寅組の企画による映画出演の誓約書を書いた[2]ことに立腹した吉本せいが調停を依頼してきたため、下関まで出向いて籠寅組の親分・保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。同月下旬には、浅草の浪花家金蔵からも籠寅組の映画の件で相談を受けた[3]。山口登は“8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい”旨の電報を保良に打った。
そして、昭和15年(1940年)8月2日、浅草の浪花家金蔵宅で籠寅組と話し合いを持った。このとき、山口登はボディーガードに客分の中島武雄を連れていた。和解金として用意した、十円札で1000円の札束を胴巻に入れていた。籠寅組からは5人が臨席した。“広沢虎造を籠寅組には貸さない”旨を伝えたが、籠寅組の5人に襲われた。中島が日本刀で刺殺された。山口登は庭に出たが、日本刀やあいくちで18ヶ所の傷を受けた。ただ、胴巻の札束が刃を止め、一命を取り留めた。浪花家金蔵が浅草の地回りの一団を連れてきたために、籠寅組の刺客たちは退散した。
昭和17年(1942年)10月4日、この傷がもとで、死亡した。享年、41。
[編集] エピソード
- 港湾事業や歓楽街、また相撲界から浪曲界・歌謡界へと興行面にも進出した。これらの山口登が残していった有形・無形の足跡は、後に三代目・田岡一雄が港湾事業への進出や興行師・永田貞雄との盃など、港湾界と芸能界を牛耳るための重要な布石となったと言われる[要出典]。
[編集] 演じた俳優
[編集] 註
[編集] 参考文献
- 『山口組 50の謎を追う 日本最大組織の〈強さ〉の秘密を徹底解剖!』 洋泉社〈ムックy〉、2004年。ISBN 4-89691-796-0。
- 飯干晃一『山口組三代目〈1 野望篇〉』 角川書店〈角川文庫〉、1989年。ISBN 4041464218。
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