岩本栄之助
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岩本 栄之助(いわもと えいのすけ、明治10年(1877年)4月2日 - 大正5年(1916年)10月27日)は、大阪の株式仲買人。大阪市中央公会堂の寄付者として知られる。
[編集] 経歴
大阪の両替商「岩本商店」を営む岩本 栄蔵の次男として大阪市南区安堂寺橋通2丁目(現・大阪市中央区南船場2丁目付近)に生まれる。市立大阪商業学校、大阪清語学校及び明星外国語学校で商業学及び外国語(英語、仏語、清語)を修める。日露戦争に出征し陸軍中尉となり、凱旋後、従七位に叙し勲六等単光旭日章を授けられる。
夭折した兄に代わり、明治39年(1906年)4月に父栄蔵の家督を相続し、株式仲買人となる。明治40年(1907年)の株式市場の大暴落時に、野村徳七ら大阪株式取引所(現大阪証券取引所)の仲買人らの訴えで全財産を投じて市場を買い支え、北浜の仲買人らを救う。その確固たる信念と、信念を曲げない勇猛心で、株式界に認められるところとなる。
また、「学問せなあかん」が口癖の栄之助は、取引所で働く少年たちのために、学校に行くように勧めるとともに、私財を投じて塾を作るなどし、ますます人気が出ることとなり「北浜の風雲児」と称えられる。
明治42年(1909年)に財界が結成した渡米実業団に加わり、渋沢栄一らとともにアメリカ合衆国を視察する。その際に、「米国ニ於テ富豪ガ公共事業ニ財産ヲ投ジテ公衆ノ便宜ヲ謀リ又は慈善事業ニ能ク遺産ヲ分譲セル実況ヲ目撃シテ大ニ感激シ這般寄附ノ決心ヲシテ」(「寄付事件記録」明治42年10月20日の記録)との思いを抱く。その視察中に父栄蔵病死の知らせを聞く。その供養も兼ねて、明治44年(1911年)3月8日に大阪市に金百万円を寄付するとの発表を行う。そのときにはまだ寄附の内容は決まっておらず、最終的に「桜並木」「育成資金」「公会堂」の三案の中から検討を重ねた結果、市民の誰もが利用できる「中央公会堂」を建設する案に決定する。同年4月12日に高崎親章大阪府知事、植村俊平大阪市長などと建設方法について話し合いを行い、いったん財団法人を組織して全てを委託し、竣工後市に寄附することとする。同年5月11日に財団法人組織許可申請を内務大臣あてに提出し、同年8月4日に許可、同年10月2日に寄付金が財団法人公会堂建設事務所に引き継がれる。財団法人の建築顧問として建築界の大御所辰野金吾を迎える。定礎式は大正4年(1915年)10月8日に行われた。
栄之助は、明治45年(1912年)から大正3年(1914年)まで大阪株式取引所仲買人組合の委員長を務め、大阪電燈株式会社(大正12年(1923年)に大阪市に買収。現在の関西電力の前身の一つ)の常務取締役も務める。
その後、大正5年(1916年)に第一次世界大戦の異常景気で、大衆の買いが殺到するなか、「大衆買いの場合は逆をとれ」との格言により、栄之助は売りに回る。しかし、相場は動かず、栄之助は苦境に陥る。
相場で大損失を被った栄之助は、大正5年(1916年)10月22日、岩本商店の全ての使用人と家族を宇治への松茸狩りに出したあと、自宅の離れ屋敷に入り、陸軍将校時代に入手した短銃で咽喉部を斜めに打ち抜き自殺を図る。左手には愛用の菩提樹の数珠を握っていたという。その5日後の同年10月27日永眠。享年39。辞世の句「この秋をまたでちりゆく紅葉哉」。
その後も大阪市中央公会堂の工事は続けられ、大正7年(1918年)10月末に竣工、同年11月17日に落成奉告祭が行われた。 現在、大阪市中央公会堂地下1階には、「岩本記念室」が設置され、銅像と遺品が展示されている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『大阪人名資料事典』〈第1巻〉(日本図書センター、2003年)
- 『大阪人物辞典』(清文堂出版、2000年)
- 『大阪人』〈vol.56 Dec.2002〉(大阪都市協会、2002年)
- 『モダン都市大阪-近代の中之島・船場』(大阪市立住まいのミュージアム、2002年)
- 『特別展示 80年の歩み』(大阪市教育委員会、1998年)