曹嵩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曹嵩(そうすう、生年不詳 - 193年)は、後漢末の官僚。字は巨高。曹操の父である。姓は曹氏。諡号は太皇帝。
[編集] 略要
『三国志』の裴松之が注を引く『曹阿瞞伝』によると、彼の家系は元々前漢の功臣である汝陰侯・夏侯嬰の系統である夏侯氏の出身で、また、夏侯惇の叔父(父の弟)であるという。後に前漢の相国の平陽侯・曹参の末裔と称した(一説では曹無傷)後漢の宦官で権勢を振るった大長秋・曹騰の養子となる。
養父の威光もあって司隷校尉・大司農・大鴻臚を経て太尉まで昇った。だが、実際に彼は実権を振るうことはなかったという。その性格は慎ましやかで、忠孝を重んじたという。一説では、曹嵩は一億銭にも上る金額を賄賂として霊帝を中心とする朝廷に贈り、太尉の職についたという。理由として、愛息の曹操が出世するにあたり、宦官の子孫というハンディを出来る限り取り除いてやりたかったことが考えられる。
その後、黄巾の乱に始まる後漢末の大乱を避けるために、徐州東北部にある瑯邪郡(または瑯琊とも)に少子の曹徳と共に避難していたが、子の曹操が群雄となって地盤を確保したことから帰還しようとした。だが、その途中で徐州・刺史の陶謙の部将である張闓によって曹嵩父子は殺害されてしまった(殺害の経緯と理由は諸説あるが、張闓らは実行後、その財宝を奪い取り、淮南に逃亡したと『魏書・武帝伝』に記されている)。父の惨殺の報を聞いた曹操は号泣。そして烈火の如く怒り、徐州に青州兵30万を含む大軍を差し向けて、当地で兵と民を問わず無差別に皆殺しをした。
220年、孫の曹丕が皇帝になって魏を立てると、曹嵩は魏の「太皇帝」と追尊された。
[編集] 宗室
[編集] 子
|
|