桂文楽
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桂文楽(かつら ぶんらく)は、落語における名跡の一つ。8代目が特に有名である。桂派の宗家・桂文治の「文」、初代の師匠でもあった三笑亭可楽の「楽」から「文楽」としたのが始まり。
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[編集] 初代
- 後の3代目桂文治。
[編集] 2代目
[編集] 3代目
[編集] 4代目
- 本名 新井文三。通称・デコデコの文楽。1838年11月10日生まれ、天狗連で鶴丸亭小きんと名乗り、4代目桂文治の門で文七、その後文鏡とした。遊郭や吉原では文三、〆寿と名乗って幇間をしていたが6代目文治の門で1868年に4代目文楽襲名。当時「ヘラヘラ節の」初代三遊亭萬橘、「ステテコ踊りの」初代三遊亭圓遊とよく比較された口癖がデコデコであった為「デコデコの文楽」と呼ばれた。1884年1月27日に57歳で没。
[編集] 5代目
- 本名 増田(金坂)巳之助(金坂惣助の養子になった為)。1864年1月生まれ、奉公に出ていたがなかなか馴染めず父親の2代目桂才賀に呼び戻され最初は桂小才と名乗るその後3代目春風亭柳枝の元に預けられ若枝を経て1888年に柳亭傳枝と名乗り、その後春風亭傳枝と亭号を改める。1896年2月に父の名、2代目才賀を襲名したが柳枝の弟子なのに桂派の名跡である才賀を名乗った事で柳枝からクレーム来て2代目才賀(当時才六)側と柳枝側とトラブルになるも柳枝側が折れ許可が下りた。5代目文楽の襲名に関しては柳亭小燕路(後の5代目金原亭馬生)、三遊亭花圓遊の間に襲名争いが起きたが結局はこの才賀が1902年5月に日本橋木原店にて襲名する事になる。翁家馬之助に譲り自身は桂やまととしたがこの時も改名でトラブルが起きている。桧物町にあった料亭「やま登」があった。やまと自身も同町内に住んでいた為紛らわしいと苦情が来たが一代限りにするからという条件で和解した。晩年には才賀に再び戻している。1925年4月19日 62歳で没。弟は兄の名乗っていた名跡を引き継いだ春風亭傳枝で20代で早死した。
[編集] 6代目・7代目
- 代数なし:以上のほかに文楽を襲名した噺家がいたが、技芸拙劣のために8代目襲名の際、代数から排除された(セコ文楽)と言われる。他に末広がりで縁起がいいから8代目とし2代飛ばしたとされている。
[編集] 8代目
[編集] 9代目
[編集] 出典
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X