榊原康勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
榊原 康勝(さかきばら やすかつ、1590年(天正18年) - 1615年6月23日(元和元年5月27日))は江戸時代前期の武将(大名)。上野国館林藩第2代藩主。榊原家2代当主。徳川四天王の一人・榊原康政の三男。正室は加藤清正の娘。子は榊原勝政(長男)。
三男であったが、長男の大須賀忠政は大須賀家の養子として出され、次男の榊原忠長は早世したため、慶長11年(1606年)に父が病死すると、その後を継いで上野国館林藩に10万石の所領を領した。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも徳川方として参戦し、冬の陣では佐竹義宣の窮地を救っている。翌年の夏の陣にも参加したが、豊臣方の真田信繁(幸村)の猛攻の前に敗れた。
夏の陣後、26歳の若さで持病の痔のために死去した。康勝には庶子・勝政(後に榊原宗家を継いだ榊原政邦の祖父)がいたが、重臣達はこれを忌み嫌って甥の大須賀忠次を養子に迎えたという。勝政は後に1000石の旗本となった。
|
|
|
このページの項目名には、オペレーティングシステムなどの環境により表示が異なる文字があります。正確な表記では「榊」が表示と異なるかもしれません。