榊原政敬
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榊原 政敬(さかきばら まさたか、天保14年(1843年) - 昭和2年(1927年)3月7日)は江戸時代の大名。越後高田藩第6代で最後の藩主。榊原家14代当主。
榊原政礼(3代藩主・榊原政令の三男)の長男。正室は有馬温純の娘。継室は前田慶寧の娘。子は娘(伊藤忠寿室)、娘(榊原政和正室)、娘(榊原政和継室)。兵部大輔、式部大輔。
文久元年(1861年)、先代藩主だった叔父・榊原政愛が死去し、家督を継ぐ。
慶応2年(1866年)の第二次長州征討では、彦根藩とともに芸州口の先鋒を命じられる。しかし、旧式の軍装だったこともあり近代装備を備えた長州藩兵に敗れ、開幕以来の徳川家先鋒の面目を失った。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、当初態度を曖昧にしていたが官軍が迫ると領内にいた幕府歩兵隊を追放。恭順の姿勢を示した。長岡藩・会津藩討伐の先鋒を命じられ、東北各地を転戦した。恭順を拒否した藩士は脱藩後、神木隊を組織し後に彰義隊に合力した。戊辰戦争終結後、降伏した会津藩士の御預を命じられる。藩内には旧幕府側に対する同情が強く、御預の会津藩士ついても明治新政府からの給費はごくわずかであったため、藩費によって手厚く待遇した。御預中に死亡した会津藩士の墓地は現在でも「会津墓地」と呼ばれ有志の手によって護持されている。
明治17年(1884年)に子爵を授けられる。政敬には男子がなく、はじめ岡田家(叔父・善宝の養子先?)から榊原政善を養子に迎えた。後に婿養子とした政和が家督を継いでいる。昭和2年(1927年)死去。
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