沼津藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沼津藩(ぬまづはん)は、江戸時代の藩の一つであり、静岡県沼津市の沼津城を居城とした。藩主は水野家で、帝鑑間詰め譜代大名として老中など幕閣を輩出した。
目次 |
[編集] 略歴
沼津城に初めて本拠を置いた近世大名は、相模小田原藩主大久保相模守忠隣の叔父に当たる治右衛門忠佐である。忠佐は慶長6年(1601年)の入封からわずか12年後の慶長18年(1613年)に死去し、嫡子の因幡守忠兼も同年に父に先立って死去していたため、無嗣断絶で改易となった。そのため、大きな事跡は残されていない。
その後、沼津の地は駿河府中藩が置かれたときはその領地となり、それ以外の時期は幕府領となり、城も破却された。
沼津に再び大名の本拠が置かれるのは安永6年(1777年)、水野出羽守忠友が三河大浜藩より転封してきた事による。忠友は享保10年(1725年)に殿中刃傷により改易となった信濃松本藩主・水野隼人正忠恒の従兄弟であり、寛保2年(1742年)に忠恒の名跡を継いだ父出羽守忠穀の跡を継ぎ、明和5年(1768年)に加増により大浜で1万3000石を領して大名に復帰していた。沼津転封後幕府の命により当地に築城したのである。
第2代藩主・水野忠成は徳川家斉時代に老中として権勢を奮い、田沼意次以上に賄賂を横行させる「賄賂政治」を行なった人物として有名である。そのため第3代藩主・水野忠義や第4代藩主・水野忠武は天保の改革を行なった水野忠邦から家斉派に対する粛清として、様々な普請を負担するという報復を受けた。
第6代藩主・水野忠寛は井伊直弼に同調して側用人として幕末期に権勢を奮った。第7代藩主・水野忠誠は佐幕派として功を挙げた。第8代藩主・水野忠敬は慶応4年(1868年)の戊辰戦争で新政府に協力したが、徳川家達が東海地方に入ってきたため、新政府の命により、明治元年(1868年)7月に上総菊間藩に移封され、沼津藩は廃藩となったのである。
[編集] 城地
[編集] 歴代藩主
[編集] 大久保(おおくぼ)家
- (慶長6年(1601年)-慶長18年(1613年))
譜代。2万石。
- 大久保治衛門忠佐(ただすけ)
[編集] 水野(みずの)家
- (安永6年(1777年)-慶応4年(1868年))
譜代。2万石→3万石→5万石。
- 水野出羽守忠友(ただとも)
- 水野出羽守忠成(ただあきら)
- 水野出羽守忠義(ただよし)
- 水野出羽守忠武(ただたけ)
- 水野出羽守忠良(ただよし)
- 水野出羽守忠寛(ただひろ)
- 水野出羽守忠誠(ただのぶ)
- 水野出羽守忠敬(ただのり)