法幣
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法幣(ほうへい)は中華民国政府により1935年より発行された法定貨幣(Fiat Money)。法幣の発行により500年に亘る銀本位制が収束したが、大量に発行したことに起因しハイパーインフレを誘発した。1948年に金円券の発行により流通停止となった。
[編集] 発行
辛亥革命により中華民国が成立しても清代まで続いた銀本位制を継承し貨幣を発行していた。清末までは取引は銀両により行なわれていたが、清末には海外から銀円が流入し、民間でも銀円が流通するようになった。民国は銀円通貨を継承し、北洋政府及び国民政府では銀円が鋳造され、1933年には「廃両改元」の通貨改革により銀円を統一された貨幣単位とすることが決定した。民国初期、各地方銀行或いは政府により別個に紙幣が発行されており、それぞれ市場での信用度と価値が異なっていた。中国銀行及び交通銀行が発行した紙幣が当時信用度の高いものとして扱われていた。
国民政府は1927年の北伐により中国を統一した後、宋子文及び孔祥熙の計画により貨幣改革を実施していった。それまで半官半民の中国銀行と交通銀行を完全に国有化し、加えて政府系の中央銀行を加え中国の銀行業務を国民党の指揮下に再編した。1929年、アメリカで始まった世界大恐慌が発生すると、ルーズベルト大統領は1934年に銀の回収を定めた法律を議会で通過、財政部により銀の備蓄が行なわれ、銀の国際価格が大幅に上昇した。 中華民国は当時世界第3位の銀本位制国家であり、アメリカの政策により大量の銀が国外に流出、デフレと利息の急速な上昇により銀行が臨時休業を行なう事態となり、早急な通貨改革が求められるようになった。
1935年11月4日、国民政府は法幣改革の実効を宣言、銀本位制の銀円に代わるものとして国家信用法定貨幣を発行することとした。中国銀行と交通銀行(後に中国農民銀行も参加)が銀本位制に代わる不換紙幣を発行し、期限を定めてその他紙幣を回収することにした。同時に一切の取引は法幣により行なうと定め、市場の銀円は国庫に帰納、1法幣=1銀円の等価交換方式を採用した。法幣発行当初はイギリスポンドとの固定為替を採用し、指定銀行において無制限に交換が出来るとされた。1936年、国民政府がアメリカと協議した結果、中国よりアメリカへの銀の輸出を認める代償として、アメリカドルを法幣発行に必要な準備外貨とし、これにより法幣はアメリカドルとの固定相場を採用することとなった。
この通貨改革は中央銀行により発行された不換紙幣である点が当時の中国では進歩的な金融制度改革であり、近代国家の金融体制下では必然的な制度であるとする見解がある。法幣の発行は中国国内の通貨を統一し、通貨発行権限を政府に集中し、また国内の銀貨等の効果を政府に帰納させ、日中戦争の戦時体制財政を維持するのに効果があったといわれている。しかし法幣発行により民間の富を政府が強制的に接収したという否定的な見解も出されている。
[編集] 日中戦争から崩潰へ
1937年の日中戦争勃発以前、法幣の総発行高は14億元に達した。1937年から1941年の期間中、日本は中国の経済破壊を目的に占領地に於いて軍票等を発行し法幣を回収、それを上海に送り国民党政府の外貨を消費させた。これに対し国民政府はイギリス、アメリカより1千万ポンドと5千万ドルの借款を受けて法幣の信用維持に努めたが価値の下落が続き、1940年には外貨への交換に制限額定められ、これを契機に法幣の価値は一気に下落した。
日中戦争期間中、増加し続ける財政支出を補填する為に法幣が大量に発行され、1945年の終戦時には発行高は5,569億元、戦前の400倍まで規模が膨らんだ。1946年以降、国民党政府は国共内戦での戦費調達に更に法幣を大量に発行し、1948年8月には発行高は604兆元にまで及び、僅か3年間で千倍にまで増加し市場にスーパーインフレを招来し、あまりにも価値の下がった法幣は製紙会社の原料に使われるまでになった。宋子文が行政院長に就任すると、法幣の安定を図るために備蓄金を放出して貨幣安定を試みるが、法幣の発行量に追いつかず失敗に終わった。1948年5月に行憲選挙が行なわれ翁文灝が行政院長に任命されると、王雲五を財政部長に任命し貨幣改革を実施、新に金円券を発行し法幣の流通を停止した。