満州軍 (日本軍)
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満州軍(まんしゅうぐん)は大日本帝国陸軍の軍の一つ。日露戦争中の1904年6月に現地総司令部として設置された。開戦当初は内地に大本営を置き指揮をとっていたが、現地司令部の必要性から開戦から3ヵ月後に設置された。
目次 |
[編集] 略年表
- 1891年5月11日:大津事件
- 1904年2月4日:御前会議で対ロシア開戦を決定
- 1904年2月6日:ロシアに国交断絶通告
- 1904年2月10日:ロシアに宣戦布告
- 1904年2月11日:大本営を宮中に設置
- 1904年2月24日:第一次旅順口閉塞作戦
- 1904年3月27日:第二次旅順口閉塞作戦
- 1904年5月1日:第1軍、九連城占領
- 1904年5月3日:第三次旅順口閉塞作戦
- 1904年5月25日:金州・南山で交戦
- 1904年5月26日:金州・南山占領
- 1904年6月15日:得利寺付近で交戦
- 1904年6月20日:満州軍総司令部設置
- 1904年7月26日:旅順攻撃開始
- 1904年8月19日:第1回旅順総攻撃
- 1904年8月28日:遼陽会戦
- 1904年9月19日:第2回旅順総攻撃
- 1904年10月9日:沙河会戦
- 1904年11月26日:第3回旅順総攻撃
- 1904年12月5日:二〇三高地占領
- 1905年1月2日:旅順陥落
- 1905年1月22日:血の日曜日事件(ロシア第一革命)
- 1905年1月25日:黒溝台会戦
- 1905年3月1日:奉天会戦
- 1905年7月7日:第13師団、南樺太に上陸
- 1905年7月31日:樺太のロシア軍が降伏
- 1905年9月5日:日露講和条約に調印・日比谷焼討事件
- 1905年9月6日:東京市他5郡に戒厳令施行
- 1905年10月15日:日露講和条約批准・発効
- 1905年10月16日:日露講和条約公布
[編集] 満州軍総司令部概要
※特に注記のない者については1904年6月20日に任命されてから解隊まで在職していた。
[編集] 総司令官
[編集] 総参謀長
[編集] 高級参謀
[編集] 作戦参謀
- 田中義一
- 大竹沢治(1904年9月30日まで)
[編集] 情報参謀
- 小池安之
- 岡田重久(1904年11月18日まで)
- 田中国重(1905年6月14日まで)
[編集] 兵站参謀
- 尾野実信
- 国司伍七(1904年4月18日まで)
[編集] 参謀
- 河合操(1904年11月6日まで)
- 東正彦(1905年6月14日まで)
- 星野庄三郎(1905年6月23日まで)
- 川崎良三郎(1904年8月24日~)
- 小澤三郎(1904年8月24日~1905年5月9日、満州軍総兵站監部参謀へ異動)
- 田村守衛(1904年9月4日~1905年8月15日)
- 稲垣三郎(1904年9月14日~1904年11月12日)
- 渡辺寿(1904年10月18日~)
- 中川幸助(1904年11月8日~1905年6月14日)
- 吉田延市(1905年4月19日~1905年5月14日、満州軍総兵站監部参謀へ異動)
- 三原辰次(1905年6月15日~)
- 安藝晋(1905年6月15日~)
- 市瀬敬三郎(1905年6月15日~)
- 曽田孝一郎(1905年7月12日~)
- 高柳保太郎(1905年8・14~
[編集] 高級副官
- 中川幸助(1904年11月7日まで)
- 市川岩太郎(1904年11月20日~)
[編集] 管理部長
- 三岳於莵勝(1904年12月20日まで)
- 芦原甫(1905年1月21日~)
[編集] 満州軍総兵站監部人事
- 総兵站監:児玉源太郎(満州軍総参謀長)
- 参謀長:落合豊三郎(交通部長兼任)
- 参謀:尾野実信(満州軍兵站参謀)
- 参謀:吉田延市
- 参謀:小澤三郎
- 副官:鷲見栄治
- 総経理部長:片山中行
- 総軍医部長:小池正直
- 交通部長:落合豊三郎(参謀長兼任)
[編集] 隷下部隊
- 第1軍
- 第2軍
- 第3軍
- 第4軍
- 鴨緑江軍
- 遼東守備軍
[編集] 関連項目
- 広瀬武夫
- 肉弾三勇士
- アレクセイ・クロパトキン:ロシア満州軍総司令官
- 南満州鉄道株式会社