白井亨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白井 亨(しらい とおる, 1783年(天明3年) - 1843年12月5日(天保14年11月14日)は、江戸時代後期の剣客。天真一刀流二代目、天真伝兵法(天真白井流)の開祖。白井流手裏剣術の開祖とも伝えられる。諱は義謙。号を鳩洲。墓は東京都台東区蔵前の浄土宗 法林寺にある。
中西派一刀流の中西道場にいた頃は、寺田宗有、高柳又四郎と並んで「中西道場の三羽烏」と呼ばれた。
[編集] 生涯
江戸の町人・大野家にて天明3年(1783年)に生まれ、後に母方の祖父である信州中野の郷士・白井彦兵衛の養子となる。亨が8歳のとき彦兵衛が没し、遺言にて母は亨を機迅流の依田秀復の元へ入門させる。母の熱心な励ましもあって亨は毎日人に倍する竹刀稽古と非常に重い竹刀を数多く振って稽古に励んだという。しかし亨は元来の体格に恵まれないのと、師である依田との折り合いが悪い事もあって免許が得られず、道場を出る。
その後、当時江戸で名高い中西派一刀流の中西子啓(木刀形稽古から竹刀での撃剣稽古へ転換した)の元へ入門する。同門には、寺田宗有(竹刀稽古はせず木刀形稽古のみ)、高柳又四郎、浅利又七郎、千葉周作などがおり、その中で亨も腕を磨いた。
文化2年(1805年)、師が没したことを機に亨は武者修行の旅に出る。神道無念流の岡田十松の道場や馬庭念流の道場などで数々の試合をして高い評価を得て、岡山藩で優遇されて道場を与えられる。岡山藩士と書かれることが多いのはこの為であるが、実際には召抱えられてはいないと言われる。
文化8年(1811年)、母の病の知らせもあって亨は江戸に戻る。江戸に戻った後にかつての中西道場の同門達を尋ねて回るが、その剣の衰えように亨は落胆し、老いると強さを失うことへの疑問を持った。それをかつての兄弟子で、天真一刀流を開いていた寺田宗有に打ち明けて立ち会ったが、六十歳を越えた寺田の気迫に負け開眼した亨は宗有へ改めて入門する。
木刀形稽古と練丹修行の傍ら、寺田の勧めで入門した徳本の念仏により大悟し、寺田の天真一刀流を継いで二代目となるが、亨は自流の研究のため天真一刀流を津田明馨に託して、自身は天真伝兵法を創始する。
天保3年(1832年)、大石進が江戸の各道場にて他流試合を挑む中、これを破って面目を保ったのは白井亨であると『一刀流極意』にある。大石進が5尺3寸の長竹刀を使用していたのは有名であるが、それに対し白井は刃渡り2尺以下の片手打ちの短い竹刀を使用したという。
天保14年(1843年)江戸で死去。
天真伝兵法は富山藩士・吉田有恒が生前に継承し、富山藩に伝わった。
白井亨は心法による剣術を理想として、白隠が『夜船閑話』等に記した内観法を行い、練丹を重視していたが、その内容が竹刀稽古全盛の当時の剣術思想に合わずにその流派は衰退したと言われる。しかし、その竹刀での打ち合い稽古の量と指導の丁寧さには北辰一刀流の千葉周作も驚嘆して『剣術初心稽古心得』に残している。また、大成して後にかの勝海舟も白井亨と稽古した印象を『鐡舟随感録』では「真に不思議なものであったよ」と言って神通力を備えていると述べ、『日本劔道史』において直心影流の山田次朗吉は「実に二百年来の名人として推賛の辞を惜しまぬ」と述べている。
数々の試合において後年の白井亨の剣名は高く、多くの召し抱えの話もあったようだが、剣への研究のためかこれをすべて断って生涯仕官しなかった。これも白井亨が同時代の他の剣客に比べて現代であまり知られていない理由であると思われる。
著書に『兵法未知志留辺』、『明道論』、『天真録』、『兵法未知志留辺拾遺』等がある。
[編集] 関連書
- 甲野善紀『剣の精神誌』新曜社、ISBN 4788503913