相馬主計
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相馬 主計(そうま かずえ、天保14年(1843年) - 明治8年(1875年)?)は、新選組最後の隊長。名は肇、明治以降は主殿。
常陸笠間藩藩士・船橋平八郎義方の息子として生まれ、剣術が盛んだった笠間藩にあって何らかの剣術を学んだと考えられる。
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[編集] 新選組
相馬がいつ新選組に入隊したかは不明である(慶応3年10月説あり)。慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いの時には入隊している。おそらく天満屋事件の時には仮隊士として入隊していたと思われる。
その後、甲陽鎮撫隊では局長付組頭として頭角を現し、流山で近藤勇が新政府軍に投降し、板橋の総督府に出頭すると、幕府陸軍軍事方、松濤権之丞の書状を携え、近藤の助命のために板橋を訪れた。しかし、近藤はすでに捕縛されていたことから、相馬もまた仲間として捕縛されてしまう。4月25日、近藤勇と一緒に処刑されるはずだったが、近藤の助命により、一緒に捕縛されていた野村利三郎と共に助命され、笠間藩に預けられ謹慎。この後、彰義隊に加わり、のちに陸軍隊として春日左衛門の支配下に入り、磐城方面を転戦する。
その後、仙台で土方と再会。戊辰戦争の最終地である箱館五稜郭へと転戦し、主に箱館市中の取締の任にあたる。明治2年5月11日、新選組を統率していた土方歳三が戦死すると、弁天台場の新選組は相馬を隊長として恭順の書状に名前をしたため、新選組の歴史に幕を引いた。正式な就任日は高松凌雲の書簡によると5月15日という。
[編集] 明治以降
明治3年10月10日、伊東甲子太郎暗殺の嫌疑により、終身流罪となり、伊豆新島に流される。大工棟梁・植村甚兵衛に身柄を預けられ、その場所で寺子屋を開く。のちに甚兵衛の長女マツと結婚した。
明治5年、赦免され、東京の「くらまえ」と称する場所に妻マツと暮らした。翌年、豊岡県権参事だった大野右仲の推薦からか、同県へ15等出仕として勤務する。翌年には14等出仕に昇進し、主に司法方面の勤務に就いた。
[編集] 謎の死
明治8年2月、豊岡県内部の抗争のためか、突如免官され、東京に戻る。その後、通説では、自殺したと伝わっている。その内容は、マツが外出先から帰ってきた際、すでに相馬は障子を真っ赤に染め、割腹自殺を遂げていたという。その際、相馬自身がマツに「他言無用」と厳命し、マツが生涯その命を守り通したために現在に至るまで不明である。
[編集] 参考文献
- 新選組読本隊士外伝2~あさくらゆう著・玉造町観光協会
- 茨城史林30号~筑波書林
- 新選組日記~木村幸比古編・PHP新書