磯城皇子
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磯城皇子(しきのみこ、7世紀後半頃)は、飛鳥時代の皇族。父は第40代天武天皇、母は宍人臣大麻呂の女。 忍壁親王の同母弟。同母姉妹に泊瀬部皇女・託基皇女がいる。
事績に不明な点が多く、686年(朱鳥元年)8月に志貴皇子(彼と同一人物であったとする考えもある。)と共に封200戸を加えられた。 以後の消息は分かっていない。679年(天武8年)の吉野の盟約に参加した記録は残っておらず、また新撰姓氏録に「浄広壱」 とある事から、大宝律令成立直前に30歳前後で早世したと推定される。母親の身分が高くなかった事もあって、 数多くいた天武天皇の皇子の中では影の薄い存在であったが、三園真人、笠原真人等の後裔氏族を残し、 また5代孫の坂井王は862年(貞観4年)に臣籍降下したと日本三代実録に伝えられている。
[編集] 血縁
- 兄弟姉妹の表記は第1皇子、第2皇子等の記述を基にしたが、序列的な意味合いもあるため実際の生誕順ではない事がある。
異母兄弟姉妹