福原広俊
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福原 広俊
- 室町時代の人物。
- 戦国時代の人物。
- 安土桃山時代から江戸時代初期の人物。
- 江戸時代前期の人物。
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[編集] 福原広俊 (室町時代)
福原 広俊(ふくばら ひろとし、生没年不詳)は、室町時代の人物。安芸毛利氏の一族である福原氏当主。少輔次郎。
父は福原朝広、子に貞俊、元澄、女子(毛利弘元妻)。毛利興元と毛利元就の外祖父にあたる。
福原氏は、毛利元春の子広世が長井氏に養子に入ったさい、その領国の地名から福原姓を名乗ったのが始まりである。 元春没後、孫の毛利光房の代になると、麻原氏など他の毛利氏分家が本家からの独立色を強める中で、広世とその子朝広は毛利本家のため忠誠を尽くし、のちの福原氏発展の基礎を築いた。
朝広の子広俊は光房の孫である毛利豊元に兄と呼ばれるほど信任を受け重用され、同じく毛利氏庶流の坂氏と協力し麻原氏らの勢力を弱めることに成功した。 不幸にも豊元が夭折した後は弘元の外戚となり、毛利家における福原氏の地位を不動のものにした。弘元に嫁いだ娘は興元と元就を生んでいる。
[編集] 福原広俊 (戦国時代)
福原 広俊(ふくばら ひろとし、生年不詳 - 弘治3年1月10日(1557年2月9日))は、戦国時代の人物。安芸毛利氏の一族である福原氏当主。出羽守。左近允。下総守。
上記の広俊の孫で、福原貞俊(左近允)の子。貞俊・元正・桂元澄妻・口羽通良妻・和智誠春妻・天野隆重妻・杉重良妻の父。
毛利家の筆頭家老をつとめた人物で、毛利元就の家督相続の際に起請文に、他の14人の宿老(桂元澄、坂広秀、渡辺勝、井上元兼、井上元盛、赤川元保、粟屋元秀、飯田元親ら)と共に署名した際も筆頭に署名している。
娘を各地の有力者に次々と嫁がせ、毛利家における福原氏の立場をさらに強化した。
1540年、出雲の尼子氏が安芸に侵攻してきた際には、子の貞俊を郡山城に派遣し、自身は居城である鈴尾城に篭城し奮戦した。1557年、没。
次子元正は元就の子元春が吉川氏へ養子に入ったさい家臣団の筆頭として同行している。
[編集] 福原広俊 (安土桃山時代・江戸時代初期)
福原 広俊(ふくばら ひろとし、永禄10年(1567年) - 元和9年(1623年))は、安土桃山時代から江戸時代の人物。安芸毛利氏の家臣で、毛利氏の一族である福原氏の当主。式部少輔、越後守。
福原貞俊の孫で福原元俊の子。 子は父と同名の元俊で、孫は自身と同名の広俊。
毛利輝元に仕え、1591年に家督を継承する。吉川広家とともに家中で重きをなし、朝鮮出兵に力を発揮した。関ヶ原の戦いにおいては、西軍に味方した毛利氏の断絶を防ぐため、広家と共に徳川氏に内通したが、結局毛利氏が減封されると広俊も本領を維持できず、以後は長門吉敷の地を領した。大阪の陣に際して佐野道可事件が発覚するとその後処理に奔走する。江戸において幕府との折衝にあたるなど、幕府との関係維持に腐心した。子孫は代々長州藩の家老を務めた。
[編集] 福原広俊 (江戸時代前期)
福原 広俊(ふくばら ひろとし)は、江戸時代の人物。長州藩(毛利氏)に仕えた武士。永代家老の職にあった。上記の広俊の孫で、福原元俊の子。
福原氏は父の元俊の代に宇部の地に国替えとなり、代々この地を領した。