秋月型駆逐艦
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秋月型駆逐艦(あきづきかたくちくかん)とは、太平洋戦争中、日本海軍が対空戦闘専用に建造した駆逐艦である(書類上の分類は乙型駆逐艦)。④計画で6隻、マル急計画で10隻、⑤計画で16隻(後に改⑤計画で23隻に増強)の合計39隻の建造が計画され、内12隻が竣工(1隻未成)している。秋月型は、駆逐艦島風を除けば最後に建造された艦隊型駆逐艦である。
なお、冬月以降を「冬月型」として区別するものもあるが、本稿では改良型として一括記載する。
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[編集] 概要
開戦前より、航空機の脅威を排除するために各国で軍艦に対空機銃や高角砲を装備するようになった。イギリス海軍は、昭和10年から旧式化していたC級軽巡洋艦の中から比較的状態が良好な艦を防空巡洋艦に改装し、当時としては破格の防空能力を備えた艦を誕生させた。これに影響を受けた各国海軍は防空専門艦の建造や、既存の旧式艦の改装を計画し始め、C級改装で経験を得たイギリス海軍は、昭和15年にダイドー級軽巡の建造を進めた。アメリカ海軍も防空専門艦の建造計画を推し進め、昭和16年以降にアトランタ級軽巡を11隻建造している。
日本海軍では当初、C級軽巡と同様に旧式化していた天竜型や5,500t級軽巡を改装し防空巡洋艦とする案も出されていたが、どちらの艦も高速性能が追求される軽巡洋艦であったため艦形が細身で、八九式12.7cm高角砲や九八式10cm高角砲を艦の中心直線上に数門しか配置できず(例:五十鈴)、効果的な対空弾幕を張れない上、イギリス海軍の様に輸送船団護衛等の通商路護衛任務を考慮しない日本海軍にとって、多額の予算をつぎ込んで改装した艦が、老朽化で直に第一線での任務をこなせなくなっては意味がないと考えられた。そこで、新たに防空巡洋艦を建造するという計画が立てられたが、当時の日本海軍はこの種の艦の導入にはそれほど熱心ではなく、程なく防空巡洋艦の建造計画は中止された。その代わりに、昭和14年から建造を開始されたのが本型である。当初の要求では、
- 最大速度35ノット
- 航続距離18ノットで1万カイリ
- 魚雷発射管を装備しない
とあり、艦種も「直衛艦」となっていたが、速度と航続距離の要求を満たした場合、重油搭載量は1,200トン、排水量は4,000トンを突破することになる。最終的に、最大速度は33ノット、航続距離は8,000カイリと縮小されることになるが、軍令部があくまで魚雷装備にこだわったため、4連装魚雷発射管を装備した「駆逐艦」として建造を開始された。
なお、本型は、建造された全ての艦名が「○月」という風に統一されているが、大正期に建造された「睦月型駆逐艦」にも似たような名前を持っている艦があるので、「○月」とあれば全て秋月型というわけではない。
[編集] 特徴
[編集] 長10センチ高角砲
従来海軍が採用していた八九式40口径12.7センチ高角砲に変わり、九八式65口径10センチ高角砲を装備している。この砲は、口径サイズこそ以前のものより小さいが砲身は長く、より長射程、高初速の砲となった。ただし、砲身そのものの寿命は短く、12.7センチが約1,000発なのに対し、10センチは350発と三分の一程度となっている。そのため、砲身の予備を自艦で交換できるという、軍艦搭載としてはきわめて珍しい砲である。その威力は高く最大射程19500メートル・最大射高14700メートル・発射速度毎分19発という高性能であり、八九式12.7センチ砲に比べ、いずれも1.4倍以上の能力向上を誇った。性能的には申し分のないものであったが、構造が複雑でマスプロには適さず、広く採用されることはなかった。のちに空母大鳳軽巡大淀にも採用されたが砲塔シールドのないタイプになった(大鳳に関してシールドは採用されたとの説もある)。
[編集] 機関配置
秋月型以前の駆逐艦の機関配置は、艦首側から見て「ボイラー・タービン・減速機」とし、それぞれを隔壁で分離するという配置であった。しかし本艦は、ボイラーの後に「左舷側タービン+減速機」その後ろに「右舷側タービン+減速機」となっている。通常の配置だと、艦のスペースを有効に使える代わりに、どれかにトラブルや被弾すると航行不能になるのに対し、後年建造される松型駆逐艦が採用するシフトエンジン方式ほどではないが、ボイラーが破壊されない限り、航行ができ残存性が高まることになる。
また、巡洋艦夕張以降採用されている「誘導煙突」を、駆逐艦として初めて(そして唯一)採用しており、艦の大きさやシルエットが夕張と似ているため、ラバウル方面に配備された「照月」「新月」を目撃したアメリカ軍は、「日本軍は夕張を量産している」と誤報を出したという。
[編集] 要目
- 全長:132メートル
- 基準排水量:2,700トン
- 公試排水量:3,470トン
- 全幅:11.6メートル
- 速力:33.58ノット
- 航続距離:18ノットで8,000カイリ
- 重油搭載量:1080トン
- 兵装
- 65口径10cm砲:連装4基
- 61cm魚雷発射管:4連装1基(次発装填装置付)
- 25mm機銃:連装2基(初期)
- 25mm機銃:3連装5基・単装4~14基(後期)※1944年6月頃
[編集] 活躍
昭和17年6月、1番艦である秋月が竣工。以降、終戦まで12隻が完成するが、8番艦「冬月」以降は日本海軍独特の各所の曲線曲面形状を取りやめ、直線平面形状となっている。
[編集] 秋月型
- 秋月(あきづき)
- 竣工直後、日本本土に空襲をかけるため接近中のアメリカ機動部隊迎撃のため、瑞鶴の護衛として出撃(これは空振りに終わる)。その後、ソロモン諸島に向かう途中、攻撃してきたB-172機を撃墜している。昭和18年1月19日、輸送船妙法丸救助に向かったところ、その際米潜水艦の雷撃が右舷缶室下に命中。かろうじてトラック島に寄港できたものの、応急修理に40日以上を費やした。サイパン島に寄港し佐世保に向かうこととなったが、その後突然、艦橋下の構造物が切断した。やむなくサイパンに戻り、艦橋を撤去した。強度が落ち折れ曲がった船体前部を切断し長崎に帰還、修理に9カ月を要することになる。その後、エンガノ岬沖海戦に参加、機動部隊の援護射撃中爆発、沈没する。これは、「味方空母に接近した魚雷を自分が犠牲になって受けたため」とも、「味方が打ち上げた高角砲弾、または機関銃弾の不発弾が魚雷に当たり誘爆した」ともいわれている。
- 照月(てるづき)
- 昭和17年、南太平洋海戦に参加する。その後第三次ソロモン海戦に参し、撃沈された霧島から乗組員を救助する。その後、ガダルカナルへの物資輸送の警戒艦として先航中、アメリカ軍の魚雷艇の攻撃を受け沈没する。
- なお、アメリカ軍は本型をAKITSUKI classと呼ばず、TERUTSUKI classと終戦まで呼んでいる。おそらく、南太平洋海戦で捕虜にした日本軍パイロットから聞き出したためと思われる。
- 初月(はつづき)
- 実戦初参加は、マリアナ沖海戦。その後エンガノ岬沖海戦に瑞鶴の護衛艦として参加。瑞鶴沈没時には救助活動を行い、その後、同型艦若月と軽巡五十鈴と共に千代田乗員の救助に向かう。その救助作業中、アメリカ艦隊(重巡3・軽巡1・駆逐艦12)が接近、若月と五十鈴を脱出させるため、米艦隊と戦闘。実に2時間にわたる戦闘において敵を拘束することとなる。この戦闘で、巡洋艦4艦は徹甲弾を合計1,200発以上撃っており、司令官は初月の戦闘に敬意を表したという。
- 涼月(すずつき)
- 完成後物資輸送護衛などの任務に就き、たびたび魚雷攻撃損傷するも撃沈されず帰投している。しかし、捷一号作戦直前に冬月と共に雷撃の損傷のため参加できず、菊水作戦時には大和と共に出撃。戦闘中に艦首部を損傷したため佐世保に後進で帰投した逸話が残る。帰投後は防空砲台として使用されて終戦を迎える。その後、若松港の防波堤として(軍艦防波堤と呼ばれる)冬月と共に沈められる。
- 新月(にいづき)
- 1943年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。第8艦隊に所属としてラバウルへ進出。7月6日、コロンバンガラ島輸送任務中、米艦隊との戦闘となり、敵艦の集中砲火を受け沈没。本型の中で、最も短い生涯を遂げた艦である。
- 若月(わかつき)
- 1943年5月31日、三菱長崎造船所にて竣工。実戦初参加は、マリアナ沖海戦で初月・五十鈴とともに参加。大鳳沈没時には、小沢治三郎を救助する。続くエンガノ岬沖海戦後の救助作業時のアメリカ艦隊との遭遇戦では、初月が犠牲になって生還するも約半月後に、船団護衛中米軍機の攻撃を受け沈没。
- 霜月(しもつき)
- 1944年3月31日、三菱長崎造船所にて竣工。マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦後に参加後、1944年11月25日、船団護衛中米潜水艦の攻撃を受け沈没。
[編集] 冬月型
- 冬月(ふゆづき)
- 1944年5月25日、舞鶴工廠にて竣工。菊水作戦時には大和と共に出撃。帰投後は門司で防空砲台として使用されて終戦を迎える。その後、若松港へ回送の後、防波堤として涼月と共に沈められる。
- 花月(はなづき)
- 1944年12月26日、舞鶴工廠にて竣工。天一作戦のため出撃した大和の護衛のため豊後水道まで護衛する。戦時賠償艦としてアメリカに性能調査のため回航される。本艦以降は、艦隊行動はほとんどおこなわず、瀬戸内海や日本近海より離れることはなかった。
- 春月(はるつき)
- 1944年12月28日、佐世保工廠にて竣工。瀬戸内海での防衛任務で終戦を迎える。復員船として使用されたあと、戦時賠償艦としてソ連に引き渡される。
- 宵月(よいづき)
- 1945年1月31日、浦賀船渠にて竣工。戦時賠償艦として雪風と共に中華民国に引き渡され、中華民国艦「汾陽」と改名となるが、実質運用はされていない。なお、秋月型の10センチ高角砲として書籍等に写真が載っているのは本艦の物だと言われていたが、最近の研究で、この写真は引き渡された雪風のものであることが判明した。
- 夏月(なつづき)
- 1945年4月8日、舞鶴工廠にて竣工。戦時賠償艦としてイギリスに引き渡された後、日本国内で解体される。
- 満月(みちづき)
- 未完成のまま敗戦を迎えた。