糸数慶子
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糸数 慶子(いとかず けいこ、昭和22年(1947年)10月11日 ‐ )は、平成期における日本の政治家。前参議院議員(1期)。沖縄社会大衆党副委員長。
バスガイド、沖縄県議会議員(3期)を歴任。「反日米安保・反自衛隊」が持論。
生年月日 | 昭和22年(1947年)10月11日 |
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出生地 | 沖縄県中頭郡読谷村 |
出身校 | 読谷高等学校 |
学位・資格 | ‐ |
前職・院外役職(現在) | 沖縄県議会議員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
参・財政金融委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
沖縄県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
所属党派(現在) | 沖縄社会大衆党→無所属 |
党役職(現在) | |
会館部屋番号 | |
ウェブサイト | 糸数けいこ公式サイト |
目次 |
[編集] 経歴
沖縄県読谷村字喜名生まれ。米軍統治下で育ち、米軍基地・読谷補助飛行場で実施されたパラシュート演習で投下されたトレーラーに小学生の少女が圧殺された事件(1965年6月11日)をきっかけにはじまった米軍抗議集会に初参加。それ以来、読谷村が村を挙げて行なう反戦運動などによく参加している。
読谷高等学校を1966年に卒業後、琉球放送の番組「土曜ワイド」アシスタントや、沖縄バス・東陽バスなどのバスガイドに勤務したが、戦跡めぐりで英霊の賛美ばかりのバスガイドのあり方に疑問を持っていた。そのころ母の法事の席で伯母ら親戚から、戦場で二人の子どもを栄養失調で亡くし、遺体にずっと話しかけ続けて離さなかったという母の戦争体験を、同じ年頃の子どもを持ったころ聞かされ沖縄戦の悲惨さを知る。その後、戦跡めぐりなどでは、沖縄戦の真実を語ることによって平和の大切さを説く平和バスガイドとして活躍。当時はバス会社から疎まれたが、修学旅行の下見で全国から研修に訪れる教師らの存在を知り、独自に平和バスガイドの養成に努め、また自身も沖縄の歴史や現状を県外、国外の人に伝えるバスガイド経験は二十年におよぶ。
1989年に沖縄大学短期大学部非常勤講師、1990年にYMCAホテル専門学校非常勤講師を経て、1992年には沖縄社会大衆党の要請と、「私が家事・育児、みんなやるから出なさい」と言う夫(当時沖縄タイムス記者)の言葉で、沖縄県議会議員選挙に出馬、得票数第二位という上位で初当選を果たす。
三期連続の任期中、こども病院の建設や男女共同参画社会の実現に努めた。1995年9月15日、北京の第四回世界女性会議NGOフォーラム・ワークショップ「沖縄における軍隊、その構造的暴力と女性」に参加、同年9月4日の沖縄米兵少女暴行事件をきっかけに11月、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」を高里鈴代(前・那覇市市議会議員)とともに設立。沖縄大学で観光学の講義をしたこともある。
2004年7月、島袋宗康の後継者として第20回参議院議員通常選挙に全国唯一の全野党共闘(沖縄社会大衆党(社大党)、日本共産党、民主党、社会民主党(社民党)、みどりの会議からの推薦と、自由連合からの支持)を得て、無所属で出馬、平和バスガイド草分けとしての知名度は高く、自由民主党(自民党)公認、公明党推薦の対立候補・翁長政俊を9万5000票以上の大差(獲得投票数約31万6000票)で破り、初当選を果たす。
当選後、民主党県連(代表・喜納昌吉)から会派入りを要請されたが、「支持団体の中に特定政党会派に所属することに慎重論が強い」として無所属の議員活動を歩み、沖縄タイムスのインタビューでは「県民、国民に公平な社会、政治の実現を目指す。国会の平和ガイド役を務めたい」と語り[1]、国政平和ガイドを自称、戦争をしない国づくりを目指している。
2006年11月に、社大党・民主党・日本共産党・社民党・国民新党・新党日本・自由連合の野党勢力の推薦を受け(保守系地域政党のそうぞうは「支持」)、沖縄県知事選挙に立候補。新党大地も推薦・支持は見送ったが、鈴木宗男代表が糸数支援に駆けつけ、国政全野党が共闘した希少な例となった。しかし11月19日に投開票された結果、自民党・公明党が推薦した仲井眞弘多候補に3万7318票差(獲得投票数30万9,985票)で敗れた。
長島昭久など、民主党内で野党共闘に否定的な勢力からは、「敗れた方が良かった」との意見を述べるものもあった。自由連合は糸数を推薦したとはいえ、代表の徳田毅が離党した上で仲井眞支援を表明し、かなりの自連支持者が仲井眞に流れたといわれている。「そうぞう」は当初代表の下地幹郎の擁立を強く主張しており、下地の出馬辞退の代わりに、糸数に「これまでの政策を全て撤回し、自衛隊・安保堅持を主張せよ」という要求を突きつけ、統一候補決定を大きく遅らせる原因ともなった。その上、『週刊金曜日』12月1日号(高江洲千里「“他力本願”戦術と裏切りが致命傷に」)によると、直前の豊見城市長選などでは野党が分裂したため、糸数陣営のねじれ現象を産んだ。同記事によるとそうぞうは選挙戦では糸数支援でまとまったが、保守を嫌う革新支持者との軋轢を生んだり、そうぞうが糸数支援に力を入れるほど、衆院選で下地と真っ向から対決した公明党・創価学会も対抗して仲井眞支援に拍車が掛かる構図になっていたという。
沖縄県知事選での敗北を受け、民主党が国会審議に復帰した上、教育基本法改定案を取り下げ、防衛庁の「省」昇格法案の賛成に回るなど、国政にも影響を与えた。
また、防衛庁長官の久間章生は11月23日、もしも糸数が当選していた場合、「法律を作ってでも、一方的に県知事の(公有水面の)使用権限を国に移してでも、やらなければいけないと考えていた。もし負けたら、力づくででもこっちはやるんだという腹を持っていた」と述べた。基地移設には公有水面埋立法に基づき知事の許可が必要だが、移設反対派が勝った場合、強硬手段によって(『読売新聞』11月24日号によると、特別措置法を制定し、知事の許認可権を中央政府に移す予定であった)ことを進める方針だったのである。
なお、アメリカの新興宗教である末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)の会員であり、参議院当選時には同教会の機関誌リアホナで「末日聖徒初の参議院議員」と写真入りで大きく紹介され、本人も「信仰を国政に反映させたい」と宣言していた。同教会をカルト視している脱会者で構成する団体「勇気と真実の会」[2]が議員の沖縄事務所に事実関係を問いただしたところ、対応した職員はモルモンで禁じられている紅茶を好んで飲んでおり、同教会に籍があることは知らなかったと証言。後に同議員から回答のメールがあり、今後、自身の宗教のことは一切、外には出さないとした。この回答は、勇気と真実の会が出した、同議員の進める政策とモルモン教義との矛盾。批判の多い宗教団体の広告塔になっていることに対する自身の見解を求めたものに対するものであった。
[編集] 文献
- 自著: 2005年5月 『いのちの声 女性・環境・平和の視点から』地域の目舎 [3]
- 自著: 2005年8月 『沖縄-平和への道 基地なしに生きる選択』資料センター本郷 [4]
- 共著: 2003年11月 『沖縄にカジノは必要か?』カジノ問題を考える女たちの会
- 関連文献: 2005年8 - 9月 福井美穂子「平和の風(かじ)バスガイド・糸数慶子の挑戦」(女性コミック)、講談社、雑誌『BE・LOVE』第17号 - 第18号[5]
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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