英一蝶
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英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年(1724年)は、江戸時代の絵師。本名は「多賀信香」(もしくは藤原信香)か。幼名は猪三郎、次右衛門、助之丞。多賀朝湖、号暁雲、藤原信香、牛麻呂など別名多数。(一蝶の号を使用するのは、実は晩年になってからだが、以下の記事中では混乱を避ける目的から、彼に対する名称を一蝶で統一する)
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[編集] 生涯
父親は多賀伯庵。伯庵は伊勢国亀山藩お抱えの国許の医師であったが、一蝶が15歳の頃、家族で江戸へ転居する。理由は不明。
一蝶は江戸へ出た直後から、絵画技法を狩野派(狩野安信)に学ぶが、2年で破門されたといわれる。 それから多賀朝湖(たがちょうこ)という名で"狩野派風の町絵師"として活躍する一方、暁雲(ぎょううん)の号で俳諧に親しみ、著名な俳人宝井其角と交友を深め、さらには其角の師匠である松尾芭蕉とも親交を持つようになる(芭蕉は伊勢の隣国、伊賀国の人) 。 書道は玄竜門下に学ぶ。 名声は江戸市中に冴え渡り、町人はおろか旗本果ては諸大名まで、広く親交を持つようになる。
また、遊郭に通い、自ら「幇間」(男芸者、太鼓持ち。いま風に言うならお座敷芸人)をして楽しんでいた(趣味か副業かは不明)。その話術・芸風は素晴らしく、豪商の於大尽や大大名の殿様すらもついつい財布を緩め、ぱーっと散財してしまうような見事に愉快な芸であったと伝わっている。かの豪商紀伊国屋文左衛門との交流もあったとか。
元禄6年1693年、罪を得て入牢する。理由は不明。2ヵ月後釈放。
元禄11年(1698年)、47歳の時、今度は"生類憐みの令違反"(後述)により、三宅島へ島流しとなった。
「三宅島はくさやの名産地である。江戸に送られてくるくさやの口に笹の葉が挿してあったら、俺は元気だ、と思ってくれ」
とは江戸を離れる彼の言葉(其角へ宛てた言葉だと伝えられている)。 島流し中の罪人には、親族から年数度の仕送り(物品)が許されていたが、彼は制限ある仕送りに毎度のように"絵の具"を要求し、江戸の自分を贔屓にしてくれる人々、または島で自分に便宜を図ってくれる人のために、または江戸に残した家族(母)の家計のために、絵を描き続けていた(現在も新島にその頃の絵が残る)。 乏しい画材を駆使しての創作活動であったが、江戸の風俗を見てきたように活き活きと描いたり、島の住民の求めに応じて描かれた縁起絵などが残っている。この時期描かれた作品を「島一蝶」と呼ぶ場合がある。
宝永6年(1709年)、将軍徳川綱吉死去。将軍代替わりの大赦により、許されて10余年ぶりに江戸へ帰る。58歳。 この後初めて北窓翁英一蝶と名乗り、深川宜雲寺に住まい、独自の作風を確立し、市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手掛けた。しかしその後も吉原での芸人活動は続けていたらしい。 享保9年(1724年) 73歳で没。 東京都港区の承教寺顕乗院に墓所がある。戒名は英受院一蝶日意居士。
[編集] 画風
島流し以前の画風は、当時既に形式化しつつあった狩野派の影響を受けつつも、岩佐又兵衛や菱川師宣らの自由な画風の影響をも採り入れたと思われ、さらに俳諧趣味を加味した(後年の作品と比べると)高尚なものが多いが、江戸復帰以後の作品は、市井の風俗や生活を取り入れた、良い意味での俗っぽさ・町絵師らしさがある、と言われる。
[編集] 交友関係
芭蕉や其角との交友関係、つまりは一蝶自身を含む当時の芸術サロン的な人々(文化人や趣味人、後援者ら)との交流は前述した通りだが、漆芸家や金属工芸作家ら、当時の江戸を代表するような芸術家・工芸家らとの交流もあった。漆芸家小川破笠(同郷伊勢国出身)などが有名。 英流などとと呼ばれる彼の画業の弟子には、佐脇嵩之とその弟子たちや、英一蝶二代、一蜂、一蜩、一舟らがいる。
[編集] 島流しに至る経緯
当時幕府は、元禄文化華やかな、つまりは風紀の乱れ、特に武士や大名らの綱紀を粛清しようと試みていた感がある。 元禄6年(1693年)には「大名および旗本が吉原遊郭に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。同年中に、"上は大名から町人に至るまで、江戸で大人気の有名人であり、著名文化人であり芸人でもあったスーパースター。ミスター遊び人。"であった一蝶が、見せしめのターゲットにされ逮捕された、と考えるのは推理しすぎであろうか。
三宅島流しに至る経緯であるが、
- 彼が作品中で"時の権力者柳沢吉保が出世する過程で、実の娘を将軍綱吉の側室に差し出した"件を風刺したから。
- 町人の分際で釣りを行った(武士は修練目的として黙認されていた)ことが、生類憐みの令違反とされた(同年、追加条例として"釣り道具の販売禁止令"すらも出ている。)
- 「"馬がもの言う"という歌を広めたから」=放送禁止歌謡。
- 芸でお座敷を盛り上げて、とあるお大名(旗本)をそそのかせて、勢いで花魁を身請け(つまり武家らしからぬ行状と、巨額浪費)させてしまったら、実はその殿様は綱吉の母である桂昌院や柳沢吉保の派閥と縁のある六角越前守だったから、とも伝わる。(表高家旗本の六角家。当時の当主で「遊郭吉原での狼藉により1967年頃閉門蟄居命令」が確認される六角広治か。広治の母は桂昌院実家の本庄氏出身。またこの六角家は守護大名六角氏とは別の家系。公家の烏丸家系)。
などの諸説があるが、正式な罪状として採用されたのは、上記2項目の"釣り罪"であるらしい。
[編集] 代表作
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