苻融
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苻融(ふゆう、Fu Róng 生年不詳-386年 )は、五胡十六国時代の前秦の皇族。第3代皇帝の苻堅(天王)の異母弟で、魏王・苻雄の末子。字は博休。諡号は哀公。
伯父・苻健の代に、陽平公に封ぜられる。異母兄・苻堅の代になって、漢族の王猛が丞相に昇格すると、その後任として冀州牧として赴任する。彼は兄・苻堅からの信頼が篤く、冀州全域を統括しその秩序を保った。また、優れた統率力で将兵の信望を得たという。
数年後に王猛が病没したために、長安に召還され、侍中・中書監・司隷校尉・太子太傅・録尚書事などを歴任。同時に、兄・苻堅の夫人の張貴妃と甥の中山公・苻詵と僧侶の道安と共に東晋に遠征しないように懸命に諫言を繰り返したが聞き容れられなかったという。
383年(建元19年)、彼は征南大将軍に任じられて、先鋒隊として20万の兵を率いて、東晋の寿春(安徽省寿県)を攻略した。やがて、兄が率いる本隊が到着して、東晋と決戦に臨んだ。だが、かつて東晋の梁州刺史だった降将の朱序が「後秦の大敗北ぞ!大敗北ぞ!!」と突如叫んで、再び東晋に帰参して前秦を裏切って苻堅の本隊に襲いかかったのである。同時に東晋の本隊も総攻撃したのである。苻堅は目を擦って疑ったが、傍らにいた弟の苻融が「兄上、もうわが軍の敗北ですぞ。この際は逃亡しましょうぞ!」と叫んで共に敗走した。こうして、あれほど威勢を誇った前秦軍は多民族国家であったことが禍して、総崩れになったのである。途中で鮮卑族の慕容垂が救援に馳せ参じて、苻堅・苻融兄弟を援護したのである(一説では、この時に苻融は戦死したともいう)。これが名高い、淝水の戦いである。
やがて、彼は兄の命で大司馬に任ぜられて、晋陽にいる甥の長楽王・苻丕を補佐するように命じられた。 だが、翌々385年秋8月に、西燕によって長安を占領され、逃亡した兄・苻堅は末子の苻詵と張貴妃とその娘の苻宝や苻錦と共に五將山に羌族の酋長の姚萇に捕らえられた。そして禅譲を拒否して処刑されてしまう。
この報を聞いた、苻丕は重臣に擁立されて晋陽で即位した。その叔父の苻融は宰相に任命された。以来も西燕と戦うが、翌年に晋陽が陥落すると、甥の苻丕と従兄の苻敞と共に河南に逃亡した。だが、そこで東晋の馮該将軍の軍勢に襲撃されて、三人は捕虜にされた。やがて、彼等は都の建康に連行されて、そこで処刑された。
カテゴリ: 中国史の人物 | 魏晋南北朝時代の人物 | 386年没