蔵前国技館
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蔵前国技館(くらまえこくぎかん)とは、両国国技館(2代目)が造られるまで、東京での大相撲の本場所を開催していた場所(国技館)である。外観は純和風で独特の雰囲気のあるものであった。現在は両国への移転に伴って取り壊され、跡地は東京都下水道局の処理場となっている。
番付では「国」の字は「國」と旧字体に書かれていた。所在地は東京都台東区蔵前2丁目1-1だった。
戦後、GHQにより両国国技館が接収され、相撲興行が出来なくなった。このため、神宮外苑の野天相撲や浜町の仮設国技館などで興行を続けていたが、本格的な興行場所を求めて蔵前に1949年(昭和24年)10月建設を開始、翌年「仮設」のまま蔵前国技館として開館した。また、四本柱の撤廃(代わりに同じ場所に同じ色の房を下げた)などが行われたのも、この蔵前国技館からである。なお、完成したのは1954年(昭和29年)9月である。
開館式では、千代の山雅信と鏡里喜代治が三段構えを行った。1971年(昭和46年)1月の改修落成記念式でも、玉の海正洋と北の富士勝昭がこれを行っている。
この前年の夏場所からテレビ中継放送が始まっており、蔵前国技館が使用されていた時代は、戦後の大相撲で最も活気ある時代でもあったといえる。
この時代の興行収入やプロレス・ボクシングなどの使用料収入が両国「新」国技館の建設費用に貢献したと言われている。尚、当時は現在の両国国技館のようにエレベーター上下式の土俵ではなかったため、プロレスやボクシングなどの興行を行うときには、土俵の真上にリングを設置していた。その為、プロレス興行に登場する悪役レスラーが、リングの下から土俵の土、及び砂を握って、反則攻撃に使うことがお馴染みとなっていた。
1984年(昭和59年)9月の秋場所千秋楽を最後に、蔵前国技館が閉館。翌年の初場所からは両国国技館へ興行場所が移った。
[編集] 蔵前国技館に関する記録
- 旧両国国技館と蔵前国技館の両方で優勝したのは、羽黒山政司だけ。戦後すぐの流浪の時期も含めれば、東富士欽壹、照國万藏、それに千代の山らも、ふたつの「仮設国技館」で優勝したことになる。増位山大志郎の2度の優勝は、ともに大阪福島公園と浜松公園での本場所で、蔵前での優勝はなかったが、やはりふたつの「仮設国技館」で優勝している。
- 蔵前で幕内をつとめ、現役で最後に残ったのは水戸泉政人。なお蔵前で土俵をつとめた最後の幕内力士は元関脇の琴ノ若晴將、2007年(平成19年)現在、蔵前国技館を経験している現役力士は、元十両(現幕下)の栃天晃と序二段の一ノ矢だけである。