趙伯魯
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趙伯魯(ちょうはくろ、生没年不詳)は中国春秋時代の晋の大夫。姓は贏、氏は趙、諱は伯魯。趙鞅の長男。献侯(趙浣)の祖父。
[編集] 略歴
趙鞅の長男として生まれた伯魯は、聡明かつ性格が温厚で、趙鞅から趙氏の次代を担う嫡男として大いに期待がかけられていた。しかし、趙鞅が人相見の姑布子卿に伯魯を鑑定させた所、「将軍の器にあらず」と鑑定されてしまう。
その後、趙鞅が常山に出向いた際、同行してきた伯魯達子息に対し「わしの宝の符を常山の頂に隠してある。見つけたものに褒美をやろう」と言ったが、伯魯を初めとして、誰も宝を見つける事が出来なかった。しかし、末子の無恤だけが、「常山の頂に立つと代を見下ろすことが出来ますが、代は取ることが出来ます」と答えた。これを受けて趙鞅は、伯魯を廃嫡して、新たに無恤を嫡子の座に据えた。
伯魯は常山での無恤の答えから彼の非凡さを感じていたので、不満を全く持たずに無恤を陰から支えた。しかし、彼はまもなく病没してしまい、その後は趙周が継いだ。
[編集] その子孫
[編集] 趙周
趙周(ちょうしゅう、生没年不詳)は中国春秋時代末期の晋の武将。姓は贏、氏は趙、諱は周、諡は成。趙伯魯の長男。代君。献侯(趙浣)の父。成君とも呼ばれる。
趙伯魯の子として生まれた趙周は、父同様に温厚な性格の持ち主で、趙氏当主の趙無恤から大いに目をかけられていた。
伯魯の後を継いだ後、紀元前463年に無恤が代を滅ぼすと、趙周は無恤からその地を与えられた。これは無恤が伯魯から嫡子の座を譲り受けた大恩に報いる為と、温厚な趙周に代の地を任せる事で人心の安定を図る為である。趙周は無恤の期待に見事に応え、代の安定化に成功し、以後代君とも呼ばれるようになる。
その後、紀元前454年に起きた晋陽の戦いでは、子息の趙浣と共に代の兵を率いて無恤の救援に駆けつけ、智瑶を敗死させる一助を担う活躍を見せる。これらの事で無恤は、次代の趙氏の当主の座を趙周に任せて、伯魯の大恩に更に報いようとしたが、趙周も無恤に先立って病没してしまう。その後は趙浣が代君の後を継いだ。
死後、「成」を諡され、成君と呼ばれる。
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