郭皇后 (曹丕)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
郭皇后(かくこうごう、184年 - 235年)は、魏の文帝(曹丕)の皇后。諡は徳。 父は後漢末に南郡太守を務めた郭永の娘。安平郡広宗県(山東省西部)の出身。名は不詳。字は女王。
幼い頃に両親を失い、家が没落したために止むなく召使として働いていたが、当時魏公であった曹操に見出され、東宮の女官となり、その美貌によって曹丕の寵愛を得て、やがて貴妃となる。曹丕に様々な献策をし、曹丕立太子に大いに尽力したという。
甄氏が死を賜ると、文帝は郭氏を皇后に立てようとしたが、没落して低い立場のために反対を受けたが、文帝はこれを押し切って皇后に取り立てた。郭氏はそうした経緯もあってか、身内へ適度に便宜を図ることはあったが、それ以上は堅く戒めており、「嫁を貰うならば、同郷で家柄の釣り合う家から貰うべきです。権勢を利用して、無理に他国(ここでは諸侯の封土を指す)の女性を娶ってはいけない」「それぞれ自戒して、処罰を受ける人間とならないようにしなさい」といった言行を残している。
明帝が即位すると、皇太后の称号を贈られ永安宮に住まう。青龍3年に許昌で崩御し、その遺言に従って首陽陵の西に陪葬された。
『魏略』や『漢晋春秋』といった史書には、甄氏の死は郭氏の差し金によるものとなっている。 「曹丕が文帝として即位し、そのうちに野心を抱くようになった郭貴妃は、文帝に讒言して皇后・甄氏が死を賜るように仕向け、自らは新しい皇后に収まった。しかし、嗣子に恵まれず、甄皇后の生んだ曹叡(後の明帝)を猶子とせざるをえなかった。文帝の死後、皇太后の尊称を贈られたものの、やがて即位した明帝により過去の罪を糾弾され、死を賜った。」という内容である。