野長瀬氏
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野長瀬氏(のながせし)は、清和源氏の一族という。源義家の四男源義忠より河内源太経国(源経国)、稲沢小源太盛経(源盛経)を経て盛経の子の経忠が初めて野長瀬孫太郎を名乗り野長瀬氏を称したという。経忠の子の頼忠が野長瀬庄司六郎と号し、頼忠が近露野長瀬氏の初代になったという。『尊卑分脈』には、稲沢小源太盛経の後は記されていないが、稲沢氏も現在まで存続しており、その分家が存在したことも確かである。そのひとつが野長瀬氏であるといえる。
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[編集] 幕府御家人
野長瀬庄司頼忠の近露庄下司任命は寛喜元年(1229年)三月であるという。 1221年に承久の乱があり、変で反幕府方に味方した公家、社寺、武士の所領は没収されて幕府軍方に味方した御家人に分け与えられた。承久の乱後八年目に行われた近露庄司の任命は、乱における論功行賞の意味合いがあると思われる。
[編集] 平家の落武者
その反面、上記の記述と矛盾する史料もある。野長瀬氏が史上に登場する、元弘の乱後の大塔宮護良親王の危難に馳せ参じたとき、平家の旗である赤旗三流を用いていることである。このことは、野長瀬氏が鎌倉幕府の御家人ではなく、平氏方に味方し野に隠れた平家の落ち武者の末であったのではないかと推測される。
[編集] 上記2項目に関して
野長瀬氏から見て本家筋にあたるであろう稲沢氏の動向が上記の矛盾に関する参考になると思われるので記す。稲沢氏は源氏の一族でありながら平家に従い、同族の石川氏討伐(指揮官は稲沢盛経の従兄弟の子と思われる大夫判官源季貞)に参加。その後も源季貞に従い西国を転戦し、平家の滅亡に至る。その後、平家方であったことから落武者となったが、後に赦免があり、御家人の列に加えられたという。同じようなことが野長瀬経忠、頼忠の身にもあったのではなかろうか。そして赦免時に与えられた所領が近露庄であったとも考えられる。
[編集] 南朝の忠臣
大塔宮護良親王が高野山に落ちる途中、玉置庄司に阻まれて危機に陥ったとき、軍勢を率いて援けた。危機の連続であった大塔宮護良親王が笠置山を逃れて以来はじめて配下に収めた軍勢で、これを機に宮方を一旦離反しかけた十津川も再び大塔宮護良親王に従い、玉置山衆徒も味方につき、大和の宇智、葛城の郷士達も味方し、吉野挙兵および金剛山千早城の後方支援の体制ができあがった。その功績から野長瀬氏は横矢の姓を賜り、以後、横矢氏も称するようになった。野長瀬氏はその後も、南朝方として楠木正行らと行動をともにし、南朝滅亡後も後南朝に仕えていたが、後南朝が途絶えると、次第に史上から姿を消す。
[編集] 戦国時代
この時代になると、野長瀬氏は力を失い、細々と近露を守るだけの一族となり、史上にも見えなくなっていく。野長瀬氏は南朝滅亡とともに役割を終えたといっても過言ではない。
[編集] 現代の野長瀬氏
現在も、野長瀬氏は中辺路町近露に続いている。先代、故野長瀬盛孝氏(医師、2001年死去)の後、現在はその細君が野長瀬の家名と中辺路町指定の天然記念物で、紀南を代表する大木のシダレザクラを守っておられる。
[編集] 関連文献
『野長瀬氏の事績』 熊野出版
『野長瀬の流れ』 野長瀬盛孝