馬忠 (蜀漢)
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馬忠(ばちゅう、186年? - 248年)は、三国時代の蜀漢の武将。字は徳信。馬脩・馬恢の父、馬義の祖父。
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益州巴西郡閬中の人。若い頃は孤篤、または孤忠という名だったという。
222年に夷陵の戦いで蜀漢が呉に大敗した報を聞いた巴西太守の閻芝は馬忠に指示を与え、猇亭(おうてい)で皇帝の劉備を援助するなど大いな功績を挙げる。その時の劉備は「朕はこの敗戦で黄権を失うたが、代わりに馬忠という名将を得たわ!」と絶賛したという。224年、諸葛亮の将軍として従い西南夷討伐に遠征した。現地で牂柯の郡丞の朱褒の軍勢と戦い、勝利を収めて朱褒を捕虜にするなど功績を残した。227年、諸葛亮から門下督に任じられ、北伐に従って活躍した。『演義』では魏の名将・張郃を射殺する功績を挙げている。
諸葛亮の死後、蒋琬の補佐役となり、異民族の討伐などで活躍した。その功績により鎮南将軍、尚書と昇進したという。思いやりのある性格で人望が厚く、異民族からもその人柄を大いに慕われた。
『演義』での馬忠は、南蛮戦でも大活躍する。彼は、祝融との一騎打ちで飛刀を受け負傷をし、張擬と共に祝融に生け捕られる。だが、その後になって魏延が祝融を捕らえ、人質交換により諸葛亮の陣へと戻された。
余談になるが、彼の前名の「狐篤」というのは春秋時代の北方にあった古代テュルク系と見られる遊牧民族国家の翟の姓でもあった。春秋の覇者の一人であった晋の重耳(文公)の生母が翟の公女であった。おそらく馬忠はその翟の末裔だと思われる。