KEIRINグランプリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
KEIRINグランプリ(けいりんぐらんぷり)は、毎年12月30日に開催される競輪のGP競走である(但し1989年は労使交渉の決裂から開催中止、1990年はテレビ中継の関係で12月29日に開催)。
近年の競輪におけるグレード制の採用により、競輪における最上位の競走とされる(但し競輪界の名誉としては競輪ダービーとする説が根強い)。
また、各種公営競技を代表する年末のビッグレース(中山大障害・有馬記念・東京大賞典・賞金王決定戦・スーパースター王座決定戦・KEIRINグランプリ)の中でも最後に行われることから「ギャンブル総決算」の意味合いを持つレースでもある。ちなみに2002年のキャッチフレーズは「全てのギャンブラーに捧げるワンモアチャンス」であった。
正賞として、経済産業大臣賞、NHK杯、主催者市長(管理者)賞、主催者議会議長賞、全国競輪施行者協議会会長賞、日本自転車振興会会長賞、自転車競技会全国協議会会長賞、日本競輪選手会理事長賞、全国競輪場施設協会会長賞、実施自転車競技会会長賞などが与えられる。
目次 |
[編集] 歴史
それまで競輪の1年の締めくくりは11月に小倉で開催される「競輪祭(における全日本競輪王決定戦) 」と言われていたが、中央競馬の有馬記念に匹敵する、その年活躍したレーサーによる最後の大一番をということで1985年に設立された。
設立当時のレース名は「KEIRINグランプリ'○○」(○○には開催西暦年の下2桁が入る)であったが、2000年には「KEIRINグランプリ2000」というレース名で開催、2001年以降は「KEIRINグランプリ○○」(○○には開催西暦年の下2桁が入る、1999年以前と異なり年を表す数の前に「'」が入らない)というレース名で呼称されている。
大会は通常のトーナメント方式ではなく、その年のグランプリ開催日においてS級に所属し、その年のGIで優勝した選手および獲得賞金額の上位選手を合わせた9人で争う一発勝負である。だからこそ、切羽詰った史上最高、史上最大の「1億円頂上決戦」が見られるのが魅力である。夏季オリンピックがある年は自転車個人競技の成績優秀者(メダリストなど)にも参加できる権利がある。2001年に競輪のグレード制が導入されてからは、GIよりも格の高いグレードとしてGPが用意された。
1着賞金は、第1回は1000万円で、1990年代前半は3000万円台であったが、以後増額され、2003年までは7000万円、2004年は競艇の賞金王決定戦の優勝賞金と同額の1億円になった(いずれも副賞含む、ちなみに2着は2000万円)。ただし予選を行う競艇の賞金王決定戦と違い、真の一発勝負のレースである点が一番のポイントである。
尚、優勝賞金の1億円(ドルに直すと約100万ドル)は競艇の賞金王決定戦と共に1レースの優勝額としては世界最高額として、ギネスブックに認定されている。
2002年からは、グランプリ優勝者は翌年1年間出場する全てのレースで1番枠に固定される特典が与えられ、また他の出場者にも翌年のGIレースへの出走資格が与えられた。また「グランプリ・チャンピオンユニフォーム」(優勝者)・「グランプリユニフォーム」(優勝者以外)を翌年の全日本選抜競輪まで着用することができる。ユニフォームの柄はこちらを参照。
開催場は固定ではなく、各競輪場による持ち回りである。ただビッグレースであり1万人以上もの大量の観客が訪れるため、現状は立川競輪場をメインとした、南関東(競輪での地区区分では関東及び南関東地区)の競輪場のみの開催に限られている(現在までに開催されたことがあるのは立川競輪場・平塚競輪場・京王閣競輪場の3場のみである)。
かつては関東以外での開催も検討され、1988年に一度は甲子園競輪場での開催が決まったが、警備面など諸問題がクリアできず立ち消えとなった。
競輪では「1競輪場で1年1グレード(GIII以上)レースのみ」が前提のため、現状では立川競輪場での開催を基本としながら、立川で日本選手権競輪など他のGIレースが開催される場合は、平塚競輪場などの他場に振られることになる。
[編集] 出場選手選抜方法
KEIRINグランプリの出場選手(通称:グランプリレーサー)は、以下の優先順位に従って選抜される。
- 当年におけるGI優勝者
- 当年に夏季オリンピックが開催された場合は、そのオリンピックにおけるトラックレース競技個人種目のメダリスト
(例)十文字貴信(1996年アトランタオリンピック自転車競技1,000mタイムトライアル銅メダル) - 当年の世界選手権自転車競技大会個人トラック種目優勝者など選考委員会から特別に認められた選手
(例)本田晴美(1987年世界選手権ケイリン優勝) - 当年1月~読売新聞社杯全日本選抜競輪最終日における獲得賞金上位者
- ※2002年のみ、 4. についてはGI決勝での着順によるポイント制が採用されたが、既権利者がポイントを大量獲得したため制度が成り立たたくなり、その年限りで廃止された。
但し、グランプリ開催当日の時点でS級に在籍していることが条件であり、同年中のGI優勝してもグランプリ当日の時点でA級に降格されている場合は出場資格を失う。
[編集] 過去の優勝者
開催名 | 開催日 | 開催場 | 優勝者 |
---|---|---|---|
KEIRINグランプリ'85 | 1985年(昭和60年)12月30日 | 立川競輪場 | 中野浩一 |
KEIRINグランプリ'86 | 1986年(昭和61年)12月30日 | 立川競輪場 | 井上茂徳 |
KEIRINグランプリ'87 | 1987年(昭和62年)12月30日 | 平塚競輪場 | 滝澤正光 |
KEIRINグランプリ'88 | 1988年(昭和63年)12月30日 | 立川競輪場 | 井上茂徳 |
KEIRINグランプリ'89 | 1989年(平成元年)12月30日 | 立川競輪場 | ※中止 |
KEIRINグランプリ'90 | 1990年(平成2年)12月29日 | 立川競輪場 | 坂本勉 |
KEIRINグランプリ'91 | 1991年(平成3年)12月30日 | 立川競輪場 | 鈴木誠 |
KEIRINグランプリ'92 | 1992年(平成4年)12月30日 | 平塚競輪場 | 吉岡稔真 |
KEIRINグランプリ'93 | 1993年(平成5年)12月30日 | 立川競輪場 | 滝澤正光 |
KEIRINグランプリ'94 | 1994年(平成6年)12月30日 | 立川競輪場 | 井上茂徳 |
KEIRINグランプリ'95 | 1995年(平成7年)12月30日 | 立川競輪場 | 吉岡稔真 |
KEIRINグランプリ'96 | 1996年(平成8年)12月30日 | 立川競輪場 | 小橋正義 |
KEIRINグランプリ'97 | 1997年(平成9年)12月30日 | 立川競輪場 | 山田裕仁 |
KEIRINグランプリ'98 | 1998年(平成10年)12月30日 | 立川競輪場 | 山口幸二 |
KEIRINグランプリ'99 | 1999年(平成11年)12月30日 | 立川競輪場 | 太田真一 |
KEIRINグランプリ2000 | 2000年(平成12年)12月30日 | 立川競輪場 | 児玉広志 |
KEIRINグランプリ01 | 2001年(平成13年)12月30日 | 平塚競輪場 | 伏見俊昭 |
KEIRINグランプリ02 | 2002年(平成14年)12月30日 | 立川競輪場 | 山田裕仁 |
KEIRINグランプリ03 | 2003年(平成15年)12月30日 | 京王閣競輪場 | 山田裕仁 |
KEIRINグランプリ04 | 2004年(平成16年)12月30日 | 立川競輪場 | 小野俊之 |
KEIRINグランプリ05 | 2005年(平成17年)12月30日 | 平塚競輪場 | 加藤慎平 |
KEIRINグランプリ06 | 2006年(平成18年)12月30日 | 京王閣競輪場 | 有坂直樹 |
[編集] エピソード
- 記念すべき第1回の1985年大会では、中野浩一が優勝。ただ、唯一高松宮記念杯競輪のタイトルが獲れずグランドスラムならなかった。
- 1987年大会では、GI(当時は特別競輪)ノンタイトルながら世界選手権でケイリン優勝した本田晴美が特例出場。
- 1989年大会は2006年までの時点で唯一の中止。理由は選手会と競技会の賞金増額交渉(労使による賃上げ交渉と似た構造)が決裂し、選手会側が先頭誘導員をあっせんしないストライキを実行したため。翌年1月の大宮競輪開設記念競輪(東日本発祥記念)ともども中止された。このグランプリに出場予定の選手は1990年5月に行われた前橋競輪「スーパープロピストレーサー賞」に全員が出場し、波潟和男が優勝した。
- 1990年大会では、坂本勉が初の逃げ切り優勝を果たす。
- 1991年大会では、全選手「出渋り」のため3回もスタートがやり直しとなり(レース続行不可能を合図するジャンが3回に亘って打ち鳴らされた)、4回目のスタート時に、「このスタートをもってしてもレース続行不可能と判定された場合はレース不成立とする。」というスターターからの事前説明があり、何とかレース不成立を免れた。
- 1992年大会では、当時彗星の如く現れた吉岡稔真が優勝。この賞金と併せ、吉岡は当時公営競技において史上最高となる年間獲得賞金1億9,002万円を稼ぎ出す。
- 1993年大会では、優勝インタビューで滝澤正光が号泣。「ありがとうございましたぁぁっっ!!」と絶叫した。
- 1994年大会では、出口眞浩が同年のオールスター競輪を制覇しながらグランプリ開催当日の時点でS級2班に降格されており、出場資格を得られなかった(当時はグランプリ開催当日の時点でS級1班在籍が出場条件)。
- 1996年大会では、車券売上額は初めて100億円を突破、106億円に達した。また、オリンピック銅メダルの十文字貴信が特例出場。
ただ、レースでは、最終周回2センターから4コーナーにかけて接触事故で6選手もの大量落車が発生。通常この位置で落車した場合、完走と認められるためには自転車に再乗してゴール線を跨ぐ必要があるものの、途中棄権すると20%減額されることや、完走した選手が3人しかおらず4着賞金が手に入る可能性があったことから松本整を始め落車した選手たちの多くが勘違いしたまま自転車を担ぎながらゴール前まで「駆けっこ」した(※ゴール手前30メートル以内の落車の場合は、再乗しなくても自転車を担いでゴール線を跨いでも完走が認められている)。結果的に完走は4人で、小橋正義-神山雄一郎(-後閑信一-吉岡稔真)の組み合わせは万車券となり、接触事故を起こしたとされた松本が失格、落車したが自転車に再乗してゴールした吉岡が4着、十文字がそのまま途中棄権、その他自転車を担いでゴールした3人は完走と認められず棄権扱いとされるなど、大荒れとなった。また、翌日のスポーツ紙でもこのことが1面を飾った。 - 1997年大会では、それまで「無冠の帝王」と呼ばれた山田裕仁が初優勝、GIタイトルより先にグランプリを制する。
- 1998年大会では、初出場山口幸二が優勝。公開練習では優勝した時のガッツポーズの予行演習をファンの前で披露していた山口だったが、まさに予告Vとなった。
- 1999年大会では、太田真一が逃げ切り優勝。逃げ切りでの優勝は意外にもこれが2回目。
- 2000年大会では、長い写真判定の結果、6回目出場の児玉広志が初優勝。確定後、児玉がバンクに現れガッツポーズを連発、スタンドのファンから「児玉」コールを受けた。
- 2001年大会では、伏見俊昭が2着の山田裕仁を1/2車身離して堂々の逃げ切りV。
- 2002年大会では、競輪祭、日本選手権競輪を連覇した山田裕仁が優勝。年間獲得賞金でも競輪史上最高となる2億4,434万円という金字塔を打ち立てた。
- 2003年大会ではレース中、伏見俊昭と村上義弘が激しい先行争いした。また、ゴール前は山田裕仁と吉岡稔真のマッチレースで、2着の吉岡は思わず手を挙げてしまった。優勝した山田は2年連続年間獲得賞金2億円突破の偉業を達成。さらに、KEIRINグランプリの2連覇という快挙も山田が初めて達成した。
- 2004年大会から、優勝賞金が1億円に増額。初代1億円獲得者は、GIノンタイトルながらV宣言していた小野俊之であった。
- 2005年大会では、ゴール前は加藤慎平と後閑信一が並んでゴール。2着の後閑が思わず手を挙げてしまった。加藤は初出場初優勝、また開放されたバンクの中にいた多くのファンの目の前で祝福を受けた。また2005年大会は以下の試みが実施された。
- 表彰式を一般開放
-
- レース終了後、バンクとスタンドを隔てるフェンスを取り払ってバンクを開放、表彰式を一般開放した。ファンは表彰台手前まで近づいて優勝者の加藤を祝福した。
-
- レース終了後、選手との懇親会を実施
-
- グランプリ当日、特別観覧席入場者の中から抽選で選ばれた30名を、レース終了後の懇親会(立食式のパーティ)に招待した。当選者は表彰式終了後、選手宿舎内の食堂にて1時間程度、グランプリ出場選手との懇親会を楽しんだ(ただ実際に出席したのは加藤慎平、小嶋敬二、後閑信一のみ)。
- 2006年大会では、北日本の3番手から伸びた有坂直樹がビッグレース初優勝、37歳での優勝はグランプリでの最年長優勝記録となった。また、このレースは吉岡稔真の引退レースとなり、レース後には引退セレモニーが行われた。
[編集] 特記事項
- 開催時の特別観覧席は、はがき・開催競輪場・インターネットでの抽選などによる発売となる。ただし2005年大会(平塚競輪場)と2006年大会(京王閣競輪場)のメインスタンド席は先着順にて販売された。
- 地上波テレビ中継(テレビ東京他で放送)のエンディングはベートーヴェンの第九が必ず流れる(ラジオは以前からアール・エフ・ラジオ日本が実況中継をしていたしかし、近年はこれにTBSラジオをキーステーションに全国ネットで実況生中継されるようになっている)。
- 売上の一部がNHK厚生文化事業団に寄付されるため、競輪のレースで唯一、NHK(衛星第1・衛星ハイビジョン)で中継されている。
[編集] 今後の開催予定
特別競輪 |
---|
競輪祭 | 東西王座戦 | 日本選手権 | ふるさとダービー | 高松宮記念 | 寬仁親王牌 |