オグリキャップ
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![]() (笠松競馬場正門横に立つオグリキャップ像。 2006年8月16日、笠松競馬場で) |
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性別 | 牡 |
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毛色 | 芦毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1985年3月27日 |
父 | ダンシングキャップ |
母 | ホワイトナルビー |
生産 | 稲葉不奈男 |
生国 | 日本(北海道三石町) |
馬主 | 小栗孝一 →佐橋五十雄 →近藤俊典 |
調教師 | 鷲見昌男(笠松) →瀬戸口勉(栗東) |
競走成績 | 32戦22勝 |
獲得賞金 | 9億1251万2000円 |
主な勝ち鞍は有馬記念2回、マイルチャンピオンシップ、安田記念等。ハイセイコー以来のアイドルホースで、競馬ブームを巻き起こした。1990年JRA年度代表馬。1991年、顕彰馬に選出。英文ではOGURI CAPと表記される。
※年齢は旧表記(数え年)
目次 |
[編集] 誕生・デビュー前
1985年3月27日の深夜、オグリキャップは、ホワイトナルビーの6番仔として誕生した。誕生時には、右前脚が大きく外向しており、すぐには自力で立てず、人の助けなしには初乳も飲めないほどであった。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、障害を抱えた仔馬に対する願いもあって、血統名(幼名)は「ハツラツ」と名付けられた。
当歳時のオグリキャップは、ホワイトナルビーの乳の出が悪かったこともあり、痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかし、削蹄の効果で次第に脚の外向が矯正され、雑草もかまわず食べるなど食欲も旺盛だったことから、2歳の秋頃には、他馬に見劣りしない馬体に成長し、負けん気の強さも見せ始めた。一方で人間に対しては、おとなしい方で、あまり手をかけさせない馬であった、と生産者の稲葉は述懐している。
1986年の10月には、岐阜県美山町(現山県市)にある美山育成牧場に移り、3ヶ月をこの地で過ごした。オグリキャップの担当者は、賢く人なつっこい馬だったが、調教時には、人間を振り落とそうとするなど勝負を挑んでくることもあった、と語っている。他馬に対しては、一歩引いたようなところがあり、自分から喧嘩を仕掛けて怪我をするような真似は一切しなかった。またこの時期には、あまりに旺盛な食欲に魅かれた他の馬主が、調教師の鷲見に早くもトレード話を持ちかけたこともあった。
[編集] 戦績
[編集] 笠松競馬所属時代
1987年に岐阜県笠松競馬場の鷲見昌男厩舎に入厩。5月19日に初戦(ダート800m)を迎えたが、マーチトウショウの2着に敗れた。その後2連勝を挙げるが、4戦目(7月26日)に再びマーチトウショウの2着に敗れた。
その後、1勝を挟んで初重賞の秋風ジュニア(8月30日:ダート1400m)で安藤勝己との初コンビでマーチトウショウ相手に勝利を収め、翌1988年1月10日のゴールドジュニア(ダート1600m)まで白星を重ね、8連勝とした。
[編集] 4歳時(中央競馬移籍後)
その後、中央競馬栗東トレーニングセンターの瀬戸口勉厩舎に転厩。中央競馬初戦は3月6日のペガサスステークス(現・アーリントンカップ)。河内洋を鞍上にゴール前鋭く伸びて白星発進。クラシック登録の資格が無かったため、オグリキャップは皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞には出走できず、毎日杯(3月27日)、京都4歳特別(5月8日)、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(6月5日)に出走することとなった。これは、後に追加登録というルールを導入する一因となった。
東上初戦となったニュージーランドトロフィー4歳ステークスは、馬なりで2着リンドホシに7馬身差の圧勝。走破タイムの1分34秒0は、3週前のGI安田記念(優勝馬ニッポーテイオー)の1分34秒2を上回るものであった。その後、高松宮杯(7月10日:当時は芝2000mのGII)、秋初戦の毎日王冠(10月9日)と古馬との対戦でも問題なく勝利を収め、地方から通算の連勝記録を14、重賞の連勝記録を6とした。
初めてのGI挑戦となる天皇賞(秋)(10月30日)では、前年末から天皇賞(春)、宝塚記念を含め重賞5連勝の快進撃を続ける同じ芦毛のタマモクロスとの「芦毛対決」が注目を集めたが、同馬の2着に敗れ、連勝はストップ。続くジャパンカップ(11月27日)でも3着に敗れた(タマモクロス2着、優勝馬はペイザバトラー)。しかし、昭和最後のGIレースとなった年末の有馬記念(12月25日)では、中山競馬場を知り尽くしているという理由で岡部幸雄に騎乗を依頼。このレースが引退レースであったタマモクロス(2着)に初めて先着。初のGI制覇を果たした。同年のJRA賞では同年の4歳クラシックを制した3頭(皐月賞:ヤエノムテキ、東京優駿:サクラチヨノオー、菊花賞:スーパークリーク)をさしおきオグリキャップが最優秀4歳牡馬に選出された。
[編集] 5歳時
翌1989年、事情(後述)によりオーナーが佐橋五十雄から近藤俊典に代わった。春シーズンは右前繋靱帯炎で休養を余儀なくされ、秋シーズンはオールカマー(9月17日)で復帰。このレースから前年タマモクロスに騎乗していた南井克巳とのコンビを組み、当時のコースレコードで勝利。続く毎日王冠(10月8日)はイナリワンとの壮絶な叩き合いの末、ハナ差で勝利、史上初の連覇を達成し、天皇賞(秋)(10月29日)に向かう。しかし、同レースでは1番人気に支持されたが最後の直線で前が詰まる不利もあって、武豊騎乗のスーパークリークに敗れ2着に終わる。
その後、中2週でマイルチャンピオンシップ(11月19日)に出走。行きっぷりが悪く道中では騎手が手綱をしごき続けて馬群の中団を追走し、それでも直線入口では5番手。バンブーメモリーに外から一瞬で交わされ離されたが、ようやく速度を上げ、猛然と内ラチ沿いを進んで追い込み、バンブーメモリーをハナ差で退けてGI2勝目を飾る(このとき実況した杉本清アナウンサーの「負けられない南井克巳、譲れない武豊」は名フレーズとなった)。
その後、翌週のジャパンカップ(11月26日)に連闘で挑んだ。同レースでは、外国馬イブンベイが引っ張る1800m通過が当時の同距離のJRAレコードを上回る1分45秒8という超ハイペースの4番手をスーパークリークと並んで追走。最後の直線では、先を行く同じ芦毛の外国馬ホーリックスを追い詰めるが惜しくもクビ差の2着。しかし、走破タイムはホーリックスと同じ2分22秒2であった。ホーリックスの記録したこの走破タイムは、当時のJRAのみならず芝2400mの世界レコード[1]であった。同タイムで走破したのに敗れたことから、ホーリックスがオセアニア産馬であることに引っ掛けて「北半球最速馬」という呼び方をしたファンもいた。
続く有馬記念(12月24日)では1番人気に支持されたが、連闘の疲れが出たためか、この年の天皇賞(春)、宝塚記念を制覇したイナリワンの5着に敗れた。1989年の秋シーズンはわずか3ヵ月半の間に6つのレースに出走した。
[編集] 6歳時
1990年の初戦、安田記念(5月13日)では、スーパークリーク、バンブーメモリーといったライバルに騎乗し、オグリキャップを苦しめた武豊を初めて鞍上に据えた(これにより当時、競馬ファンが願っていた組み合わせがここに実現し、マスコミでオグリキャップと武豊の組み合わせを「ゴールデンコンビ」と言われた)。レースは当時のコースレコードの1分32秒4で優勝、GI3勝目を飾った。しかし、続く岡潤一郎(故人)騎乗の宝塚記念(6月10日)では直線伸びず、オサイチジョージの2着に敗れる。その後、アーリントンミリオンに登録があったが、右後肢飛節軟腫を発症し海外遠征は立ち消えた。
秋に入り、新たなパートナー増沢末夫を鞍上に3度目の天皇賞(秋)(10月28日)に出走。1番人気に支持され、悲願の天皇賞制覇を狙うがヤエノムテキの6着に敗れ、続くジャパンカップ(11月25日)もベタールースンアップの11着と見せ場もない大敗が続いた。このため、引退の噂や限界説が流れ、その去就が注目されてしまった。
その後同馬は引退を決め、引退レースとなる有馬記念(12月23日)は、ファン投票1位に支持され、当日の中山競馬場には中山競馬場史上最高の17万7779人の入場人員を記録した。しかし、馬券的な人気は国内馬同士の争いにもかかわらず、ジャパンカップに続きオグリキャップとしては最低の4番人気にまで落ち、ジャパンカップ以外では中央競馬2戦目の毎日杯以来、単枠指定にもならなかった。レースは逃げると見られていたミスターシクレノンが出遅れ、オサイチジョージが押し出されるように先頭に立ちスローペースで展開。スタンド前では大歓声に1番人気のホワイトストーンが引っかかる中、オグリキャップは、再び鞍上となった武豊に導かれて落ち着いたレースぶりでスムーズに中団を追走。3コーナーから徐々にペースを上げ、4コーナーで外から先頭に並びかけると最後の直線で抜け出した。そして、大歓声の中、2着のメジロライアンに4分の3馬身差をつけてゴールに飛び込み、見事に限界説を一蹴。「奇跡の復活」、「感動のラストラン」といわれる勝利を収めた。レース後、スタンド前でウイニングランを行うオグリキャップに17万大観衆の「オグリコール」が贈られた。また観客の中には感動で涙を流す姿も見られた。
翌1991年1月、引退式が京都競馬場、笠松競馬場、東京競馬場の3箇所で行われた。競走馬の引退式を3競馬場で行うのは史上初であり、笠松競馬場では入場制限を設けるほどの観客数であった。この引退式でも「オグリコール」が贈られていた。(レースに関する詳細については第35回有馬記念を参照)
1992年より、笠松競馬場で同馬を記念した「オグリキャップ記念」が開催されている。2004年まではダートグレード競走であったが、2005年以降は笠松競馬の経営難から東海・北陸・近畿地区ブロック限定競走となった。また、2005年4月29日、30日の両日には笠松競馬場で同馬の一般公開が行われた。
[編集] 競走成績
年月日 | 競馬場 | 格 | 競走名 | 着順 | 距離 | タイム | 騎手 | 調教師 | ||
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1987 | 05. | 19 | 笠松 | 3歳新馬 | 2着 | ダ800 | 50.1 | 青木達彦 | 鷲見昌勇 | |
06. | 02 | 笠松 | 3歳イ | 1着 | ダ800 | 51.1 | 高橋一成 | 鷲見昌勇 | ||
06. | 15 | 笠松 | 3歳イ | 1着 | ダ800 | 49.8 | 青木達彦 | 鷲見昌勇 | ||
07. | 26 | 笠松 | 3歳イ | 2着 | ダ800 | 50.3 | 高橋一成 | 鷲見昌勇 | ||
08. | 12 | 笠松 | 3歳イ | 1着 | ダ800 | 49.7 | 高橋一成 | 鷲見昌勇 | ||
08. | 30 | 笠松 | 秋風ジュニア | 1着 | ダ1400 | 1.30.3 | 安藤勝己 | 鷲見昌勇 | ||
10. | 04 | 笠松 | ジュニアクラウン | 1着 | ダ1400 | 1.29.4 | 安藤勝己 | 鷲見昌勇 | ||
10. | 14 | 中京 | 中京盃 | 1着 | 芝1200 | 1.10.8 | 安藤勝己 | 鷲見昌勇 | ||
11. | 04 | 名古屋 | 中日スポーツ杯 | 1着 | ダ1400 | 1.29.8 | 安藤勝己 | 鷲見昌勇 | ||
12. | 07 | 笠松 | 師走特別 | 1着 | ダ1600 | 1.44.4 | 安藤勝己 | 鷲見昌勇 | ||
12. | 29 | 笠松 | ジュニアグランプリ | 1着 | ダ1600 | 1.45.0 | 安藤勝己 | 鷲見昌勇 | ||
1988 | 01. | 10 | 笠松 | ゴールドジュニア | 1着 | ダ1600 | 1.41.8 | 安藤勝己 | 鷲見昌勇 | |
03. | 06 | 阪神 | GIII | ペガサスS | 1着 | 芝1600 | 1.35.6 | 河内洋 | 瀬戸口勉 | |
03. | 27 | 阪神 | GIII | 毎日杯 | 1着 | 芝2000 | 2.04.8 | 河内洋 | 瀬戸口勉 | |
05. | 08 | 京都 | GIII | 京都4歳特別 | 1着 | 芝2000 | 2.03.6 | 南井克巳 | 瀬戸口勉 | |
06. | 05 | 東京 | GII | ニュージーランドT4歳S | 1着 | 芝1600 | 1.34.0 | 河内洋 | 瀬戸口勉 | |
07. | 10 | 中京 | GII | 高松宮杯 | 1着 | 芝2000 | R1.59.0 | 河内洋 | 瀬戸口勉 | |
10. | 09 | 東京 | GII | 毎日王冠 | 1着 | 芝1800 | 1.49.2 | 河内洋 | 瀬戸口勉 | |
10. | 30 | 東京 | GI | 天皇賞(秋) | 2着 | 芝2000 | 1.59.0 | 河内洋 | 瀬戸口勉 | |
11. | 27 | 東京 | GI | ジャパンカップ | 3着 | 芝2400 | 2.25.8 | 河内洋 | 瀬戸口勉 | |
12. | 25 | 中山 | GI | 有馬記念 | 1着 | 芝2500 | 2.33.9 | 岡部幸雄 | 瀬戸口勉 | |
1989 | 09. | 17 | 中山 | GIII | オールカマー | 1着 | 芝2200 | R2.12.4 | 南井克巳 | 瀬戸口勉 |
10. | 08 | 東京 | GII | 毎日王冠 | 1着 | 芝1800 | 1.46.7 | 南井克巳 | 瀬戸口勉 | |
10. | 29 | 東京 | GI | 天皇賞(秋) | 2着 | 芝2000 | 1.59.1 | 南井克巳 | 瀬戸口勉 | |
11. | 19 | 京都 | GI | マイルチャンピオンシップ | 1着 | 芝1600 | 1.34.6 | 南井克巳 | 瀬戸口勉 | |
11. | 26 | 東京 | GI | ジャパンカップ | 2着 | 芝2400 | 2.22.2 | 南井克巳 | 瀬戸口勉 | |
12. | 24 | 中山 | GI | 有馬記念 | 5着 | 芝2500 | 2.32.5 | 南井克巳 | 瀬戸口勉 | |
1990 | 05. | 13 | 東京 | GI | 安田記念 | 1着 | 芝1600 | R1.32.4 | 武豊 | 瀬戸口勉 |
06. | 10 | 阪神 | GI | 宝塚記念 | 2着 | 芝2200 | 2.14.6 | 岡潤一郎 | 瀬戸口勉 | |
10. | 28 | 東京 | GI | 天皇賞(秋) | 6着 | 芝2000 | 1.58.9 | 増沢末夫 | 瀬戸口勉 | |
11. | 25 | 東京 | GI | ジャパンカップ | 11着 | 芝2400 | 2.24.1 | 増沢末夫 | 瀬戸口勉 | |
12. | 23 | 中山 | GI | 有馬記念 | 1着 | 芝2500 | 2.34.2 | 武豊 | 瀬戸口勉 |
[編集] 引退後
引退後は18億円という高額のシンジケートが組まれて種牡馬となり、産駒が1994年にデビュー。しかし、初年度産駒のオグリワンこそ東京優駿(日本ダービー)に出走したものの、下級オープン馬をわずかに輩出しただけであった。同年度に種牡馬デビューしたサンデーサイレンスとは天と地の差が開いてしまった。2004年時点では6頭の種付けとなっている。
また、1994年にはスーパークリーク、イナリワン、ヤエノムテキ等のかつてのライバルの産駒もデビューしたが、いずれもこれといった活躍馬を輩出することができず、種牡馬としては失敗と言われる結果となった。
[編集] 主な産駒
- アラマサキャップ - クイーンステークス2着
- オグリワン - ききょうステークス、小倉3歳ステークス2着
- ランスルーザターフ - 中央4勝
- ノーザンキャップ - 中央3勝、2007年現在唯一の後継種牡馬
- フルミネート - '99九州ジュニアグランプリ(荒尾)優勝
[編集] 功績と評価
オグリキャップはその競走成績以上に日本の競馬界に様々な影響を残した馬である。
[編集] 競馬ブーム
オグリキャップはバブル景気と相まって競馬ブームを巻き起こし、女性ファンを競馬に取り込んだ。オグリキャップの登場以前は競馬といえば男性の娯楽、ギャンブルというイメージが大きく、ハイセイコーブームに沸いた時期でさえ、女性の入場者はほとんどいなかった。しかしオグリキャップの活躍が報じられるようになると、武豊と共に若いファン、女性ファンを競馬場に引き込む原動力となった(彼女たちは俗に「オグリギャル」と呼ばれた)。今でこそ競馬グッズの定番となった「馬のぬいぐるみ」もこの競馬ブームに伴って発売されたもので、特に1989年のクリスマスには、プレゼントとしてオグリキャップのぬいぐるみが良く売れたという逸話も残されている。
[編集] クラシック追加登録
オグリキャップがクラシック競走に出走できなかったことは、大きな物議を醸した。4歳時にオグリキャップはメジロラモーヌと並ぶJRA記録であった重賞6連勝(当時)を記録し、勝ち続けるたびに同世代の皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞は「敗者復活戦」などと揶揄され、クラシック登録という制度への批判が絶えなかった。その反省から後に追加登録制度(通常のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料を払えばクラシック競走に出走できる)が作られた。1999年にはテイエムオペラオーがこの制度を生かして皐月賞に出走、勝利している。
[編集] オーナー
オグリキャップはその競走生活で2度オーナーが変わっている。最初のオーナー小栗孝一が公営・笠松競馬で所有。その後、中央競馬の馬主資格を持っていなかった小栗を佐橋五十雄が説得して購入、中央競馬に転入させた。、1989年(平成元年)年初、佐橋が脱税で逮捕され馬主資格を剥奪された事の余波を受け近藤俊典が多額の費用を支払って現役時に限り3人目のオーナーとして所有した。この多額の(一説によると3億円と言われる)移籍費用を巡って、1989年のオグリキャップは故障がちであったにも関わらず、マイルチャンピオンシップから翌週のジャパンカップへの連闘を含めた厳しいローテーションが組まれた。
[編集] 血統表
オグリキャップの血統 (ネイティヴダンサー系/Nasrullah4×5=9.34 | |||
父
*ダンシングキャップ Dancing Cap 1968 芦毛 アメリカ |
Native Dancer 1950 芦毛 アメリカ |
Polynesian | Unbreakable |
Black Polly | |||
Geisha | Discovery | ||
Miyako | |||
Merry Madcap 1962 鹿毛 |
Grey Sovereign | Nasrullah | |
Kong | |||
Croft Lady | Golden Cloud | ||
Land of Hope | |||
母
ホワイトナルビー 1974 芦毛 北海道新冠町 |
*シルバーシャーク Silver Shark 1963 芦毛 アイルランド |
Bussion Ardent | Relic |
Rose o'Lynn | |||
Palsaka | Palestine | ||
Masaka | |||
ネヴァーナルビー 1969 黒鹿毛 |
*ネヴァービート | Never Say Die | |
Bride Elect | |||
センジュウ | *ガーサント | ||
スターナルビー F-No.7-d |
[編集] 主な兄弟姉妹
母ホワイトナルビーの産駒は15頭全てが勝ち上がり、2頭はGI馬になっている。また5代母のクインナルビーは1953年の天皇賞(秋)を制している。
[編集] 脚注
- ^ ただし、競馬における計時方法(計測開始時点が異なる)、計測単位(1/100秒~1/5秒)などが国・州などによって異なるため正確な表現ではない。
日本中央競馬会・顕彰馬 |
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