クラウス・バルビー
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クラウス・バルビー(Klaus Barbie,1913年10月25日 - 1991年9月25日)は、ナチス・ドイツの親衛隊中尉、ゲシュタポ指揮官。人々から『リヨンの虐殺者』と呼ばれた。
[編集] 生涯
ノルトライン=ヴェストファーレン州で生まれ、第2次大戦中に終戦まで、占領地フランスのリヨン市で親衛隊保安情報部長の地位にあった。抵抗運動を鎮圧する任務に就いており、8千人以上を強制移送により死に追いやり、4千人以上の殺害に関与し、1万5千人以上のレジスタンスの参加者に拷間を加えたとされている。しかし実際には、この数字をはるかに上回る数のレジスタンスのメンバーやユダヤ人を虐殺したと考えられている。またレジスタンス指導者だったジャン・ムランを逮捕した。
戦後、本来ならばすぐにでも戦犯として逮捕され、ニュルンベルク裁判で裁かれてもおかしくなかったが、アメリカ軍情報部は、当時、戦争犯罪人として追われる身だったこのバルビーを対ソ情報網設置に役立つ人物と判断し、1947年から「アメリカ陸軍情報部隊(CIC)」の工作員として利用した。やがてフランスの諜報機関は、アメリカがバルビーをかくまっているという事実を嗅ぎつけ、アメリカにバルビーの引き渡しを要求しはじめた。フランスの度重なるバルビー引き渡し要求にもかかわらず、アメリカは引き渡しを拒否。バルビーは「クラウス・アルトマン」のパスポートと必要書類一式を受けとり、1950年12月に家族と共に南米に旅立った。そして1951年4月23日、無事に家族と共にボリビアのラパスに到着した。当時のボリビアは軍事政権の支配下にあり、ドイツ系移民の影響力も強かった。バルビーは以後、南米の元ナチスと連絡を取り、1957年10月7日、ボリビア国籍を取得することに成功した。
この後数十年間にわたり、バルビーはボリビアの歴代指導者の治安問題アドバイザーを務め、同国の共産主義組織や反政府ゲリラ組織に目を光らせた。その間、武器取り引き会社を設立して億万長者となった。
しかし、1972年に、ペルーのリマ市で発生した殺人事件の被害者と容疑者に関係のあったバルビーはリマ市警に眼をつけられた。そしてこの実業家が、実はフランスの大審院によって死刑の判決がでている戦争犯罪人であることをつきとめられた。事件後、バルビーは公然と姿を現わし、自分の正体を認めた。そしてボリビアのTVに出演して、ナチス親衛隊員の過去を礼讃した。世界のマスコミが騒然となり、ボリビアに殺到した。バルビーはマスコミに『回想録』を売りつけ、戦後、西ドイツの「ゲーレン機関」と連携していたことを暴露して、世界を驚かせた。バルビーは戦争犯罪と考えられるいかなる行為にも関わっていないと強く主張した
1982年にボリビア軍事政権が倒れ、社会主義政権にとってかわられるとともに翌年、70歳になったバルビーはフランスに引き渡され、リヨンの法廷で終身禁固刑を宣告された。この裁判において、バルビーは、「自分はフランスがアルジェリアでやったのと同じことをしたにすぎない」と主張し物議をかもした。1991年9月、刑務所内で死亡。