ジム・コロシモ
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ジェームズ・"ビッグ・ジム"・コロシモ(James "Big Jim" Colosimo、 1877年 - 1920年5月11日)はシカゴのギャングスター。大柄で陽気で男前のコロシモは1910年代のシカゴでは人気者の名士だった。無類のダイヤモンド好きで10本の指にダイヤの指輪を光らせシャツのボタンもダイヤ、ベルトのバックルもダイヤで飾り、ポケットの中にもジャラジャラとダイヤを持ち歩いていた。そのため、"ダイアモンド・ジム"("Diamond Jim")とも呼ばれた。本名ジャコモ・コロシモ(Giacomo Colosimo)。
イタリアのカラブリア州コゼンツァ出身で、1895年に移民してきた。シカゴのレヴィー地区のポン引きとして出発し、汚職まみれの市議会議員のマイクル・"ヒンキー・ディンク"・ケンナとジョン・"バスハウス"・カフリンの「集金人」(恐喝の隠語)を買って出て2人の後ろ盾を得た。そのころ、道路清掃人としての堅気の仕事も兼ねていた。清掃人の組合を作り権力の基盤を築きはじめた。組合の票を見返りとして区長の地位を得た。
彼の根城はコロシモズ・カフェで、シカゴで最も人気のあるナイト・スポットだった。ギャングスターたちが各界の名士や芸能人と一緒になっていた。コロシモは大のオペラ好きで友人のエンリコ・カルーソーが定期的に訪れていた。このクラブのほかにも売春宿(アル・カポネはシカゴに来た頃コロシモの売春宿で売春業の基礎を学んだ)を何件か経営していた。新聞の推定では毎月5万ドル以上は儲けていた。この収入から自分と父親に召使を置く豪邸を建てた。
ビジネスが大きくなると事業を管理できる有能な男を探した。シカゴで何十人もの候補者を蹴った後でブルックリンのジョニー・トーリオの噂を聞き、やがてトーリオに仕事を提供した。
※一般にはトーリオがコロシモの甥であるということになっているが、その関係を実証する証拠はない。
コロシモはシカゴでブラック・ハンドの餌食になっていた時期もあった。脅迫状が届くと素直に金を払い、その場をしのいだ。トーリオが部下になってから、彼のギャング団がそういった連中を駆除したとも言われている。
やがて禁酒法が始まり、トーリオやカポネがやろうとした酒の密売の投資を断る。理由は売春や賭博でうまくいっていたので政府とはもめたくなかったため。コロシモは古いタイプのギャングスターで典型的な親分肌。そのため、1920年代に暗黒街をのし上がっていこうとする若者たちには煙たい存在になっていた。
この頃、コロシモはデール・ウィンターという若い女に一目惚れした。彼女は女優や歌手になろうとしてシカゴへやってきたが、仕事にありつけなかった彼女はコロシモのカフェで歌わせてもらっているうちにコロシモの目に留まった。1920年5月に商売上のパートナーでもあったヴィクトリア・モレスコと離婚し、3週間足らずでコロシモはデール・ウィンターと結婚した。
1920年5月11日、コロシモは自分の経営するカフェの事務所でフランキー・イェールに暗殺された。トーリオとカポネは酒の密売がしたいため、イェールに殺害を依頼した。享年43。コロシモ殺害のニュースはシカゴ全市を驚かせた。遺産相続のとき7万5千ドルの遺産はヴィクトリア・モレスコやデール・ウィンターではなく父親の手に渡った。