ジョルジュ・ムスタキ
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ジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki、1934年5月3日-) は、フランスの歌手。エジプト・アレクサンドリア出身のギリシャ人。本名、Yussef Mustacchi。
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[編集] 略歴
ギリシャ人の両親がエジプトに亡命中に生まれた。フランス系の学校に通っていたが、民族など様々なトラブルがあり、自らを「地中海人」と見做すようになる(ヨーロッパ各国、アフリカ、アラブの文化が混在した無国籍ないし多国籍の意)。17歳の時にエジプトからフランス・パリに出る。
パリは実存主義者の終わりの時代で、ムスタキはパリの左岸を生活の場とし、時々、友人のために曲を書いたり、カフェやキャバレーで歌ったり、エジプト新聞の特派員、本屋のセールスマンなどをしていた。
1957年にアンリ・クローラを通してエディット・ピアフに紹介され、約一年間の恋人生活を送り、ピアフのためにたくさんの曲を書いた。中でも作詞した『Milord』(「ミロール」)は、ヒットナンバーとなり、ムスタキの名が広まる。その後、イヴ・モンタン、ダリダ、アンリ・サルバドールらが曲を依頼する。また、映画やTVの音楽も担当している。
ムスタキは、フランスの伝統を受け継ぐシンガーソングライターの第一人者で、イタリア、ベルギー、スイス、アメリカなどでも人気がある。また、伝統的なシャンソンだけではなく、サンバ、ボサノバ、フォルクローレなどの要素を巧みに取り入れた曲風も少なくない。とりわけブラジル音楽について、「1972年のブラジル訪問は自分の音楽観を一変させた」と語っている。その歌い上げるテーマは、愛、旅、孤独から自由、闘い、革命まで幅広い。ギリシャ語・アラビア語・フランス語を話し、旅行・絵画・オートバイが趣味である。
[編集] 大ヒット曲『Le Métèque』(異国の人)
歌手としてのキャリアは長いが、本格的な歌手デビューは、1968年に当初ピア・コロンボのために作り、69年に自身も吹き込み大ヒットした『Le Métèque』(邦題「異国の人」- 直訳すると差別的な意味としての「よそ者」もしくは「ガイジン」)といっていいだろう。前年68年のパリ五月革命の余熱の中で、フランス社会でタブーともいえた「Juif -ユダヤ人」という単語をロマンチックに謳い上げ、自由を求める時代の気風によって、ムスタキは初めて歌手として広く認知されたといえる。
ムスタキ自身は、この『Le Métèque』のヒットについて、自著『Les Filles La Mémoire』(『ムスタキ自伝 思い出の娘たち』 山口照子 訳 彩流社)で「ある者はそこに世の中からはみ出した者のロマン主義や絶対自由主義を、また他の者はそこに政治的、イデオロギー的、戦闘的、1968年的な合言葉を見てとった。移民たちはアメリカの黒人が言うところの"Black Is Beautiful"に匹敵する、自分たちが他者とは異なっていることへの誇りをそこから汲み取った。それは祖国をなくした人々の賛歌、無国籍者の集合の叫び、無銭旅行者たちの要求だった。(略)僕にとって、それはただの恋の告白の歌だった」と語っている。
[編集] プロテスト・シンガーとしての顔
1969年に発表した『Le Temps De Vivre』(邦題「生きる時代」-同名映画の主題歌)では「聞いてごらん、五月の壁の上で言葉が震えている。いつかすべてが変わると確信を与えてくれる。Tout est possible,Tout est permis -すべてが可能で、すべてが許される」と五月革命時の有名な落書きのスローガンを曲にして歌った。1972年の『En Méditerranée』(邦題「地中海にて」あるいは「内海にて」)では、70年代に入っても(「政治の季節は終わった」とされていても)、独裁政治に抗するスペイン、ギリシャの民主化運動に捧げて「アクロポリスでは空は喪に服し、スペインでは自由は口にされないが、地中海には秋を怖れぬ美しい夏が残っている」と歌い、まだ発売される前の1971年にフランコ独裁下のスペイン・バルセロナ公演で発表する。1974年の『PORTUGAL』(邦題「ポルトガル」)では、「理想なんて実現しないと思い込んでいる人々に、ポルトガルにはカーネーションが咲いたんだと言ってやって下さい」とカーネーション革命を祝福して歌った。また、同年のスペインの独裁者フランシスコ・フランコ危篤の報に、『FLAMENCO』(邦題「フラメンコ」)で「フランコのいないスペインを夢見る」と歌って物議を醸し、フランスのスペイン大使館はレコード会社に『FLAMENCO』の発売差し止めを申し入れるという「外交問題」にまで発展した。
ムスタキは常に社会変革の運動に心をよせ、五月革命の最中に、そして90年代に入っても度々、ストライキを行っている労働者たちのピケットで歌った。自身の曲に、ストライキを闘う(女性)労働者たちに捧げて「闘う者に名はつけられない。しかし人はそれをRévolution permanente-永続革命と呼ぶ」と歌った『Sans La Nommer』(邦題「名も告げずに」)がある。
[編集] 日本とのゆかり
大塚博堂・さとう宗幸らはムスタキを敬愛し、ムスタキの曲をカバーして歌う。1974年4月からTBS系で放映されたテレビ・ドラマ『バラ色の人生』(主演:森本レオ、寺尾聰、香山美子)では、主題歌として『Ma Solitude』(邦題「私の孤独」)が使用され、劇中にもムスタキの曲がふんだんに使われた。また、桃井かおりの84年のアルバムに収録された『愛のデラシネ』の作曲も手がけた。日本には、1973年の「東京音楽祭」のために初来日し、1976年には日本全国23ヶ所のコンサート・ツアーを盛況のうちに成功させる。1995年には「夕張国際映画祭」の審査委員長を務め、映画祭の直前に起こった阪神・淡路大震災の被災者のために急きょ、「阪神大震災チャリティーコンサート」を栗原小巻、あがた森魚らと開き、集まった義援金四十万七千円を被災地の兵庫県に贈った。通算で、八度来日している。
ムスタキは日本(人)観として「(自分にとって)ヒロシマの敗者が彼らの伝統と精神性を放棄しつつ、勝者の価値観に同調しているといったくらいの漠然とした小国でしかなかった。ヴィクトリア王朝的な厳格さ、馬鹿丁寧にぺこぺこすること、常に自制心を失わないこと、能率のよさ、何が何でも時間を厳守すること、これらに対しては何の魅力も感じない。(略~しかし)冷静な微笑の裏には本物の親切がある」(前掲書)と書いている。
[編集] 関連リンク
[編集] 主な楽曲
- MA SOLITUDE(私の孤独)
- LA DAME BRUNE(ブリュネットの貴婦人-共演 バルバラ)
- LE TEMPS DE VIVRE(生きる時代)
- LE METEQUE(異国の人)
- SANS LA NOMMER (名も告げずに)
- EN MEDITERRANEE (地中海にて-2002年Maria del Mar BONETとの共演)
- FLAMENCO (フラメンコ)
- LE FACTEUR(若い郵便屋)
- SARAH(サラ)
- HIROSHIMA(ヒロシマ)
- ET POUR TANT DANS LE MONDE(この世の果て)
- LES AMOURE FINISSENT UNJOUR(ある日恋の終りが)※大塚博堂(訳詞:大塚博堂)、さとう宗幸(訳詞:高野圭吾)などがカバー。
現在、ポリドールレコードから日本盤として発売されている『私の孤独~ベスト・オブ・ジョルジュ・ムスタキ』が比較的入手が容易である。
- 1. MA SOLITUDE - 私の孤独
- 2. LE TEMPS DE VIVRE - 生きる時代
- 3. LES AMIS DE GEORGES - ジョルジュの友達
- 4. LES ENFANTS D'HIER - 幼年時代
- 5. L'HOMMES AU COEUR BLESSE - 傷心
- 6. GRAND-PERE - おじいさん
- 7. 17 ANS - 17歳
- 8. IL EST TROP TARD - もう遅すぎる
- 9. IL Y AVAIT UN JARDIN - 悲しみの庭
- 10. LE METEQUE - 異国の人
- 11. LE FACTEUR - 若い郵便屋
- 12. SARAH - サラ
- 13. HIROSHIMA - ヒロシマ
- 14. MA LIBERTE - 僕の自由
- 15. PORTUGAL - ポルトガル
- 16. EN MEDITERRANEE - 内海にて
- 17. NADJEJDA - 希望
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